宋史卷三百八十一 列傳第一百四十 吳表臣

諫官としての活動

  • 呉表臣、字は正仲、永嘉の人。大観3年(1109年)進士、通州司理として陳瓘に器量を認められた。朱勔の党である盛章の不正を摘発、監察御史・右正言に遷り、高宗の詔に応じ上流の防備・淮甸の藩蔽・民兵の選抜・海舶の集結など多くの策を献じ、その多くが採用された。
  • 経筵の重要性を説き、蔡京・王黼の党を用いようとする勢力に対し、御史沈与求の弾劾を支持して言路を守った。辺境守備の人材難に対し唐の蕭復・韋皋の故事を引き、身分によらず忠義の実績で登用すべきと説き、陳敏ら十数人が録用された。
  • 病により補外を求め、紹興元年(1131年)司勲郎中・左司として裕国強兵の十策(税役の免除・懦弱兵の淘汰・冗員の廃止・度牒停止・租税横領防止・財政官の重用・功労者の顕彰・弓手制度の維持・和買の厳格化・法令の簡素化)を上奏した。
  • 左司諫・給事中として、胡安国の罷免に反対し、朱勝非の都督罷免にも反対したが聞き入れられず、台州黄巌丞に左遷、その後祕書少監・同修哲宗実録、中書舎人給事中兵部侍郎を歴任した。秦檜の議地界策には不同意を示して罷免され、後に知婺州として水害救済に尽力、吏部尚書兼翰林学士に至ったが、秦檜の使金構想に大礼の議論で異を唱えて罷免された。晩年は「湛然居士」と号し、布衣同様の生活を送り、67歳で卒した。