宋史卷三百八十一 列傳第一百四十 王居正

王安石学術批判

  • 王居正、字は剛中、揚州の人。太学時代、新学(王安石の経学)が主流でも「窮達には時があり、心の是非は改められぬ」と信念を貫き、流落10余年を経て、司業黄斉に「王佐の才」と評されたが他の考官に阻まれ次点に留まった。
  • 范宗尹の推薦で高宗に対策、「時が危機にあるからこそ学を極めるべし」と説かれ、宗尹を動かして出仕させた。対策で「難を難と思わず努力すれば易に転ずる」という理を説き、靖康から建炎への危機の連鎖を歴史的に論証、高宗はこれを嘉した。
  • 太常博士・礼部員外郎として明堂合祭の議論に加わり、天地合祭の再開に貢献した。侍御史沈与求の弾劾に連座し補外を求めたが許されず、天降祥瑞の噂を退けるなど実証的な姿勢を貫いた。
  • 起居郎として省費論を数千言の疏で展開、「事を省く道を知らずに費を省こうとするのは本末転倒」と論じた。秦檜とは旧知の間柄であったが、檜の言行不一致を見抜き、帝に「檜は『中国人はただ着る物と食べる物さえあれば中興を図れる』と語ったが、実際の施策はそれに反する」と批判し、檜の恨みを買った。
  • 知婺州として羅の貢納増額に抵抗し、責任を一身に負う覚悟を示して制度を建炎時の水準に戻させた。市御炭の不合理な規格(「胡桃文鵓鴿色」)を批判し廃止させた。太常少卿・起居舎人兼権中書舎人史館修撰として、宗室の不当な昇進を諫め、上書人陳東・欧陽澈の顕彰、黄潜善・汪伯彦の重罰を主張した。
  • 大将張俊の部下の横暴を糾弾し、諸家の徭役免除にも反対、和州の進奉大礼絹の減免を進言、近習の人事介入を批判し皇祐の詔書を援用した。
  • 王安石の学術を42篇にまとめた「辨学」を上奏し、帝に「安石の学は覇道を雑え商鞅の富国強兵に倣ったもので、蔡京・王黼の罪は安石に発する」と語らせた。安石の経学が「無父無君」の思想を含むと論じ帝を憤慨させた。
  • 侍御史謝祖信に弾劾され括蒼に3年間隠棲、弟居脩の出仕を機に再登用され、知婺州時代の善政(貢羅・御炭の免除)を帝に称賛された。知温州として秦檜専権下で目疾を理由に沈黙を保ったが檜に忌まれ、御史何鑄の弾劾で10年間祠を奉じ、檜死後に旧職に復し、紹興21年(1151年)65歳で卒した。
  • 儀観豊偉、俸禄を親族に分け与え私財を残さなかった。楊時に六経の学を認められ、辨学13巻・詩辨学20巻・周礼辨学5巻・辨学外集1巻を著し、王氏学の流布を終息させる契機となった。