宋史卷三百八十 列傳第一百三十九 蕭振

地方治績と蜀の政治

  • 蕭振、字は徳起、温州平陽の人。若くして荘重で自ら謀を立て、農作業の傍らで学問を怠らなかった。政和8年(1118年)進士、信州儀曹として神霄宮の奢侈な整備に反対、方臘の乱では貴渓・弋陽の県事を摂り、軍餉督弁で功をあげたが大将劉光世の俘馘授与を「矢石を冒さず功を貪るのは不可」と辞退した。
  • 婺州の兵曹・功曹として、婦翁許景衡の召命に際し私事の推薦を戒め、賊乱に応じ叛乱を企てた軍の鎮撫にも当たった。城の修築を数万緡の予算で完遂し、任満後は隠退を望んだが推薦されて教授・監察御史に至った。
  • 老親のため補外を願うも許されず「事親の日は短く事陛下の日は長い」と奏し、提点浙西刑獄・宗正少卿・侍御史を歴任。趙鼎の推薦を受けたが秦檜に引き立てられ台に入り、劉大中を弾劾して趙鼎を動揺させた。
  • 知湖州へ赴く際、和議を守りつつ武備を怠らぬよう進言、帝の反問に対し「臣の親は一夫の係、陛下の親は天下の係」と応じ帝を感嘆させた。檜の羨余取り立て要求には財用を一身の血気に喩えて拒み、後に楊煒の獄に連座して池州へ謫された。
  • 敷文閣待制知成都府として軍糧調達を巡り檜派の総計者と対立し再び貶されたが、民が振を慕う声が帝に届いて成都に復帰、寛政を敷いた。四川で二度善政を行い、72歳で卒し、民が老幼を問わず哭泣したと伝わる。文集20巻がある。

史論

  • 何鑄・王次翁ら以下の数人は秦檜に阿附して忠良を排斥し富貴を貪ったが、次翁は特に柔媚であったため檜に最も長く重用された。孔子の言う「鄙夫は得ることと失うことを患い、至らぬところがない」とはこの輩を指す。
  • 鑄は岳飛の冤を晴らした点は評価できるが、その後使金の役を務め、檜の深謀に陥りながら悟らなかった点は惜しまれる。