秦檜の台諫工作
- 勾龍如淵、字は行父、永康軍道江の人(勾姓は勾芒に由来、高宗即位に伴い避諱で勾龍氏に改姓)。政和8年(1118年)上舎第、州県を経て張浚の推薦で紹興6年(1136年)祕書省校書郎、著作佐郎・祠部員外郎兼礼部起居舎人を歴任。文章の巧拙について帝と問答したことがある。
- 中書舎人兼侍読兼直学士院として趙鼎罷相の制を起草、君子(孫近・李光)を召し小人(呂本中)を退けるべきと進言。呂本中を巡り趙鼎との確執を深めた。「君臣情通」論(大臣の些細な過ちを陛下が明白に議論すべき)を帝に説いた。
- 御史中丞となり、檜のために「相公のために台諫を選び反対論を撃退せよ」と献策、擢用されて中司となった。「凡事必有初」論を展開し、孟庾・王庶・劉大中らを次々弾劾して罷免に追い込んだ。
- 金使の国書受納問題では、書を禁中に納める策を建議し実行された。紹興9年(1139年)曽開・范同の罷免、施庭臣・莫将の躍進にも関与したが、後に施庭臣との確執から自ら求去を願い出、帝の不信を疑い弁明したが受け入れられず、知遂寧府への任命も帝の「用心不端」との一言で取り消され、両度の祠を経て62歳で卒した。
- 当初張浚の薦めで登用されながら、最終的には秦檜を助け趙鼎を排斥し、呂本中を讒し劉大中・王庶を逐ったことは、その心跡が明らかであると評された。