和議期の対金・対蜀政策
- 楼炤、字は仲暉、婺州永康の人。政和5年(1115年)進士、大名府戸曹・西京国子博士・辟雍録などを歴任。建康での「量力」論(淮南を保てるなら淮南を屏蔽とし、保てないなら長江を険阻として呉会に都す)を献じ、右司郎中に抜擢された。
- 銓曹の冗員問題を光武の併省の故事に倣い整理すべきと論じた。紹興2年(1132年)秦檜罷相に連座して一時退けられたが復帰し、殿中侍御史・起居郎として、宰相に塩鉄転運を兼ねさせる唐制の応用を提案した。
- 監司郡守の推薦制度整備を進言し、張浚の兄滉への出身賜与に反対して詔勅の署名を封還し、中書舎人張燾と共に外任となった。中書舎人兼直学士院として、金との和議の詔勅文(河南の地の返還を含む)を起草した。
- 端明殿学士僉書枢密院事として陝西宣諭に赴き、殉節者の顕彰、劉豫下の陝西諸郡の資産回復を上奏、東京・永安軍の陵墓を巡視、李世輔の帰順を招き、呉璘・郭浩・楊政の軍配置を整えた。呉璘の反対意見(金の反覆を警戒し蜀口を空にしない策)を容れて陝西への大規模移軍を見送った。
- 帰朝後、資政殿学士知紹興府、僉書枢密院事兼権参知政事に至るも弾劾され祠を経て知宣州・徙広州の途上、73歳で卒し、後に襄靖と諡された。若くして蔡京に付いたことを台諫に論じられた過去があり、陝西宣諭では尊大・貨欲との批判もあった。