秦檜への阿諛と失脚
- 楊愿、字は原仲、宣和末(1125年頃)太学禄。二帝の北遷時、金人に名を知られ民間に匿れ、済州の元帥府に奔り勧進に参与、高宗即位後は御営司機宜文字として登用された。
- 秦檜に薦められ、樞密院編修官、紹興2年(1132年)進士第、祕書郎、通判明州を歴任。檜が政権を握ると祕書丞・監察御史・司封員外郎・起居舎人兼権中書舎人に累進、玉牒修纂では秦檜の建議本末を記載するよう主張した。
- 紹興13年(1143年)権直学士院として金国賀正旦接伴使、金使完顔畢の傲慢な態度を礼で正し、送伴使も務めた。翌年御史中丞、端明殿学士僉書枢密院事兼参知政事に至った。
- 同僚張擴との確執から御史李文会を使嗾し弾劾させ、髙閌が張九成を弁護すると讒言で追い落とした。李光の詩を誣告して瓊海への再謫を実現させた。史事を論じては檜に阿り、檜が薦める執政は無能で従順な者ばかりであったことを助長したと批判された。
- 3年後知宣州、玉牒完成で資政殿学士、知建康府、紹興22年(1152年)52歳で卒。晩年、表弟王炎が「秦丞相の短所を記した書簡」の記憶を口にしたことに怯え引き留めようとしたが、炎は舟で逃れ、愿はこれを憂え病没した。