岳飛の参謀
- 薛弼、字は直老、温州永泳の人。政和2年(1112年)進士、懐州刑曹・杭州教授を歴任、五礼新書の釈奠儀礼の誤りを正した。内侍王道の絹の不正取得を摘発し畏憚された。
- 靖康初、李綱の堅守策に賛同、姚平仲の不可恃論、金軍再侵の予測がいずれも的中したが用いられず罷帰した。三門白波輦運・淮東塩事・湖南運判を歴任。
- 楊么が洞庭で反乱を起こした際、岳飛の討伐に従い参謀として、大船建造による長期戦を避け、旱魃で水位が下がった好機に筏で江路を断ち騎兵で攻める策を献じ、岳飛はこれを容れて旬余で平定した。祕閣に進んだ。
- 飢饉の際、六万緡・広西常平米六万石・鄂州米二十万石の賑済を実現。王彦の八字軍の統制、岳飛参謀官として岳飛の喪中に軍が動揺した際の鎮撫、荊南知事として盗賊招安の処理などに手腕を発揮した。
- 陝西転運使、左司郎官、知虔州、知黄州を経て福州の大盗鎮圧策(強壮丁による効用兵の編成)を献じ、四年間で賊を平定、知広州、63歳で卒した。
- 秦檜の郷里出身で檜の門下にあり、湖北で盗賊鎮圧の功を万俟卨に譲り、卨が岳飛の獄を鞫した際も連座を免れ、檜のために働き続けたことは世に軽んじられた。