初任と諫官時代
- 何鑄、字は伯寿、余杭の人。政和5年(1115年)進士。州県の官を経て諸王宮大小学教授・祕書郎となり、御史中丞廖剛の推薦で殿中侍御史に対策、孝の徳と誠意を尽くせば梓宮の帰還・両宮の奉迎・境土の回復も可能と説き、監察御史に拝せられた。
- 殿中侍御史として士大夫の心術の乱れ(虚を飾り名を掠め、利を図り険を行う風潮)を厳しく戒めるよう上疏した。
- 温州へ諸宮殿の神像を遷す際の騒擾を憂え、寧神より民心を得ることが重要と諫めてこれを止めさせた。右諫議大夫として中興の要は志を立てることにあり、事の成否は熟慮にあると論じた。
岳飛の獄と使金
- 御史中丞となった際、秦檜が和議を主導し、岳飛の戦功を金が深く忌んでいたため、檜は王貴に岳飛を誣告させ大理獄に繋いだ。鞫問を命じられた何鑄が岳飛を庭に引き出し反状を詰問すると、岳飛は背を見せ「尽忠報国」の刺青を示した。取り調べても証拠が無く、鑄は冤罪と判断して檜に訴えたが、檜は「これは上意である」と不快を示した。鑄は「一岳飛のためではなく、強敵未滅の時に大将を無故に殺せば士卒の心を失う、社稷の長計ではない」と反論、檜は言葉に詰まり万俟卨に鞫問を代えさせた。結果、岳飛は獄中で死し、子の岳雲は市で斬られ、檜は鑄を恨んだ。
- 金が蕭毅・邢具瞻を遣わした際、檜は「梓宮・太后未帰の今、大臣でなければ祈請できぬ」として鑄を端明殿学士僉書枢密院事・報謝使に任じた。鑄は「これは顔真卿の李希烈への使いのようなものだが君命は辞せぬ」と述べて赴いた。
- 帰国後、檜は万俟卨に鑄が岳飛を弁護したことを弾劾させ嶺表への流罪を図ったが帝は従わず徽州に謫された。金人が「鑄は用いられているか」と問うたことから復官し知温州、のち再び使金、帰国後大用の話もあったが結局祠を求め資政殿学士知徽州、65歳で卒した。
- 人柄は孝友廉倹で貴顕となっても屋敷を持たず仏寺に寓居した。岳飛の冤を晴らしたことは評価される一方、その後の台諫在任中に趙鼎・李光・周葵・范冲・孫近らを弾劾したことは風向きに阿ったとの批判もあった。太后帰還も鑄の使金の功とされるが、実際は金側が既に方針を決めていたためであった。死後40余年で通恵と諡されたが、遺族はこれを辞し、嘉定初(1208年頃)恭敏に改諡された。