宋史卷三百七十九 列傳第一百三十八 韓公裔

康王擁立への貢献

  • 韓公裔、字は子扆、開封の人。三館吏より補官し韋賢妃閣の牋奏を掌り、康王府内知客となった。金兵が京を攻めた際、王の使者として従行し、将官劉浩・呉湛の私闘を鎮め、磁州で奉使王雲が殺された際も軍民を諭して事を鎮めた。
  • 王が南下する際、間道を潜行して夜間軍を進める策を公裔と謀り、磁州に迅速に至って敵に察知されなかった。兵が退いた後、張邦昌が三舅韋淵を遣わし伝国璽を献じたが、淵は偽官を自称しており議者は不信を唱え王は誅殺しようとしたが、公裔は「神器の帰趨は天命」と説いて淵を救い、璽の管理を任された。

即位後の処遇

  • 元祐后の詔により王が皇位を継ぐ際、府僚は金軍接近を理由に彭城への屯駐を主張したが、公裔は睢陽で肇基したことに因み睢陽での受命を献策、前軍が彭城に向かった時に大雷電が起きて進めず、王は夜半「明日睢陽なら決まる」と語り、即位後、公裔は武功大夫貴州防禦使に累遷した。
  • 黄潜善の怒りを買い三官降格されたが、帝が旧功を思い召し戻し幹辦皇城司・帯御器械となり、広州観察使・提挙佑神観に至った。藩邸に30余年仕え、恩寵厚く、玉牒の修纂にも関わった。
  • 秦檜は帥府旧人として修書官に登用させたが、公裔が檜を避け帝に近づいたことを疑い、諫議大夫汪勃が檜の意を受けて弾劾、公裔は外祠に退けられたが帝の眷顧は変わらず、檜死後に佑神観提挙に復し、和寧門西に邸を賜った。華容軍節度使、致仕後は岳陽軍節度使に転じた。
  • 高宗内禅後も孝宗に忠労を語られ、居郡は優遇された。乾道2年(1166年)75歳で卒し太尉を贈られ恭栄と諡された。親族8人が官を得た。人柄は身を慎み権勢を求めず、黄潜善・秦檜と一線を画したことが評価された。

史論

  • 章誼は正直に諫言する節操を持ち、韓肖胄は父祖の余蔭を受けながらも多くの建言をなし、使命を辱めなかった点で共に評価に値する。
  • 陳公輔は諫臣としての体をよく備え、蔡京・王黼の党を弾劾し呉敏・李綱の不和を指摘したのは正しかったが、王安石学術の害を弁じながら程頤の学を重んじなかったのは疑問が残る。
  • 張觷は蔡京の禍を斥け楊時の賢を薦めた点で志操が正しく、しかも寇を平定した功を誇らなかった。
  • 胡松年は秦檜を嫌って交わらず、時務に通じた見識は得難いものであった。曹勛は軍事の間で功労を重ねたが、金の侵攻計画が既に定まっていたにもかかわらず「隣国は恭順で他意なし」と述べたのは、先見の明に欠けていたと言わざるを得ない。
  • 李植と韓公裔は早くから忠誠を示し、天子の旧知として黄潜善・秦檜と一線を画し、門を閉ざして時を待ったことは、進むべき方向を心得ていたと言えよう。