出自と献策
- 李植、字は元直、泗州臨淮の人。幼少より学問に篤く、伯父中行が蘇軾門下にあり、太史晁無咎に「国士」と評され娘を娶わされた。靖康初、高宗が大元帥府を開くと湖南の向子諲の転運の下で迪功郎に借補され、四百艘・銀百万・糧百万石を督押して忠義の兵二万余を集め十余戦を経て任務を果たした。
- 高宗が鉅野に駐屯中、布衣一人が衆を率いて至ったことに士気が上がり、植は厚遇されて承直郎となり幕府に留められた。三たび勧進の表を上げ、汪伯彦・黄潜善に忌まれた。
地方官としての治績
- 高宗即位後、東南発運司幹辦公事、のち奉議郎知潭州湘陰県として楊么の乱の残地を治め、荊棘を切り開き県治を立て倉廩を開いて撫民に努めた。
- 張浚の推薦で朝奉郎鄂州通判、馬友・孔彦舟の反乱討伐に戦艦整備と水戦訓練を献策、伏兵で彦舟を破り馬友も平定、朝奉大夫に転じ荊南府通判、尚書戸部員外郎に至ったが、秦檜専権下で張浚の旧僚として排斥され、丐祠して長沙醴陵に19年間隠棲した。
- 秦檜死後、子の向子諲の推薦で戸部郎中として召され、高宗に「朕の故人なり」と評されたが老母を理由に辞退、知桂陽軍を得た。母の喪に服し廬墓に白鷺・朱草の瑞祥が現れたと伝わる。
- 服喪後、参政銭端禮の推薦で知瓊州となるも遠隔地のため知徽州に改められ、淫祠を廃し民心を教化。鎮江府知事、江淮荊湘都大提点坑冶鋳銭公事を経て、金の盟約破棄に際し漕運の才を買われ京西河北路計度転運使、乾道元年(1165年)提刑江西、二年(1166年)直宝文閣江南東路転運使兼知建康軍府兼安撫使となり、防江十策(荊襄の守備・中軍の配置・強壮の選抜・険阻の把握・敵の短所攻撃・降者への賞など)を上奏した。
- 病により中奉大夫・宝文閣学士で致仕、湘に還り胡安国父子・劉錡らと交わり、和議を終生の恨みとした。76歳で卒し、文集『臨淮集』10巻があり胡銓が序を書いた。諡忠襄。子五人のうち汝虞・汝士・汝工が官に就いた。