宋史卷三百八十 列傳第一百三十九 王次翁

地方官から宰相輔佐へ

  • 王次翁、字は慶魯、済南の人。貧しい太学生時代から学問に励み、恩州司理参軍・婺州教授・辟雍博士を経て知道州、燕雲の役の免夫銭徴収を期限内に完済し、劇賊馬友・孔彦舟・曹成の脅威に対しても糧秣30万を無理なく準備した。
  • 呂頤浩の招きで参謀官となり、致仕を経て秦檜に召され、吏部員外郎・祕書少監・起居舎人・中書舎人を歴任。劉光世が使相除任に伴い子の恩蔭を奏したのを繳還した。工部侍郎兼侍講、蜀の帥欠員人事で帝に経術を評価され資善堂翊善を兼ね、御史中丞に転じた。

秦檜への追従と趙鼎排斥

  • 趙鼎を不法として弾劾し知泉州へ追いやり、宣撫司の人事権を巡る朝廷の尊厳を主張し、閤門の専断も批判した。世忠・光世・張俊・劉錡の不和を指摘し、郭子儀・李光弼の故事を引いて融和を促した。
  • 金軍の再侵時、檜のために「国是が定まらないうちに宰相を代えるのは益がない」と帝に説き、檜の恩人として遇された。檜の兄子や内兄王㬇の恩幸を復活させる建言も行い、二人は急速に昇進した。
  • 趙鼎の排斥では、まず罷免を主導し、鼎が上書すると檜の意を受けて処罰の強化を重ねて主張、興化軍へ、さらに潮州安置へと段階的に追い込んだ。参知政事に至り、両浙転運司の科挙試験で檜と次翁の子姪が多数合格し世論を驚かせた。
  • 岳飛らの論功行賞に際し、檜と謀って岳飛を待たせる策を用い、諸将の兵権を奪う計画に加担、子の伯庠に「秦相と久しく謀ってきた」と語った。
  • 太后帰還の奉迎扈従礼儀使を務めた際、太后が金使に貸した金の返済を巡り檜の命を待って三日間対応を遅らせ、太后の怒りを買い帝も激怒したが、檜に相談していたため事無きを得、報謝使を務めて帝の怒りを避けた。最終的に檜の勧めで資政殿学士奉祠となり明州に隠棲、19年(1149年)71歳で卒し宣奉大夫を贈られた。子壻親戚多数が浙東の官に就いた。檜が19年間政権を握る中、忤らずに終始したのは次翁だけであった。