出自と初任
- 陳公輔、字は国佐、台州臨海の人。政和3年(1113年)上舎及第、平江府教授に任じられた。当時権勢を振るった朱勔に諸生が阿ろうとしたが公輔は交わらず、その怒りを買い越州へ左遷された。
- のち権応天府少尹、祕書郎を歴任。靖康初、蔡京・王黼の残党が台諫の要職を占めていることを指摘し、朴実剛直な人物を台諫に登用すべきと上奏した。
諫臣としての活動
- 呉敏と李綱の不和を憂え、両者の融和を帝に求めた。徽宗が渡江後に還らぬことを憂慮する世論に対し、父子の義を説いて奉迎を進言、欽宗はこれを嘉し右司諫に抜擢した。
- 景霊宮享祀後の陽徳観への行幸に対し宴遊を慎むよう諫め、蔡京父子の処断がなお不十分であることを論じ、崇信軍節度副使への降格を実現させた。朱勔の罪も奏して子孫の連座を求めた。
- 李綱の党と目され弾劾された際、自ら弁明し、李綱の太原援軍の失敗、余応求の遠謫の不当、馮澥による熙寧・元豊政治批判の不当を論じたが、時宰の怒りを買い応求・程瑀・李光らとともに左遷され、監合州税となった。
- 高宗即位後召還され尚書左司員外郎、紹興6年(1136年)吏部員外郎として、公卿大夫に気節がないのは王安石の学術の害であると痛論し、三経字説が春秋・史漢の学を廃れさせたことを厳しく批判した。
- 左司諫に復し中興の要諦(得天・得人)を論じ、以後も心を正し学を修め、人を用い、朋党を戒めるよう説き続けた。建康への駐蹕に際し攻守の策や淮西の防備強化も上奏した。
- 徽宗の訃報に際し三年の喪礼を主張し、明堂の配享等の礼制論も展開。尚書礼部侍郎に遷ったが趙鼎との軋轢から祠を求め、集英殿修撰・知処州・徽猷閣待制を経て卒。年66歳、大中大夫を贈られた。文集20巻・奏議12巻がある。
- 人柄は事に剴切で悪を嫉むこと甚だしかったが、程頤の学を重んじなかったことが惜しまれた。