出自と相州守
- 韓肖胄、字は似夫、祁州安陽の人。曾祖韓琦、祖韓忠彦は二代にわたり宰相を務めた。父は治。
- 蔭により承務郎に補せられ開封府司録を歴任、徽宗に家世を問われ同上舎出身を賜り衛尉少卿・三品服を賜った。遼国生辰の賀使を務め、後に直祕閣知相州として父の任を代わり、帝から「韓氏は代々相州の官を継ぐ」と称された。
- 在任4年、金軍の来襲に備えて守りを固め、金騎が入境したが略奪せず退いた。建炎2年(1128年)知江州、後に祠部郎・左司に遷り、長江の険と淮南の屏蔽の重要性を説いて屯田を建康に置くことを進言、逃斥堠・戢戍兵・防海道・援中原・修軍政の五事を上奏した。
紹興の建言と使金
- 工部侍郎に擢せられ、川陝の馬綱路が不通のため広西邑州に互市を置くことを提案し実施された。戦守の対策千余言を奏上し、吏部尚書席益に称賛された。
- 紹興2年(1132年)詔により省費裕国強兵息民の策を述べ、財賦の窠名整理、諸軍の覈実による冒請の防止、流民の招集と減税策などを提言、多く採用された。
- 吏部侍郎に遷り、散逸した条例を整理して弊害を除いた。陣亡者の補官制度の不均衡も是正した。
- 紹興3年(1133年)端明殿学士・同僉書枢密院事・通問使となり、胡松年を副として金へ赴いた。母は「国恩を受けた家、老母を思わず行け」と励まし、帝は「賢母」として滎国夫人に封じた。往復わずか半年で成果を上げた。
- 帰国後、朱勝非との議論が合わず外任を求め温州知事等を歴任。紹興5年(1135年)戦守の方略を問われ、西軍の精鋭を活かした攻守策、諸大将の統合指揮、流民招集による屯田策などを詳述した。
- 常州知事から召され僉書枢密院事、和議成立後に報謝使として再び使金、接伴者の「謝恩使」という呼称に反論して押し通した。金の館で問答に応じ、還る際に氈車・頓逓の礼を初めて受けた。
- 資政殿学士知紹興府を経て、弟膺胄と越に隠棲、母に孝を尽くし、七十六歳で卒し元穆と諡された。祖琦の晝錦堂、父忠彦の栄帰堂に続き肖胄も滎事堂を築き、三代が郷郡を守ったことは郷里の誉れとなった。