宋史卷三百七十九 列傳第一百三十八 章誼

出自と初任

  • 章誼、字は宜叟、建州浦城の人。崇寧4年(1105年)の進士。懐州司法参軍を皮切りに漳州・台州の教授、杭州通判を歴任した。
  • 建炎(1127年~)初、陳通が杭州で乱を起こして銭塘城が閉ざされると、按察使の命で杭州七県の弓兵を集めて声勢を張った。王淵の討伐軍にも従い入城し、乱平定後に加階された。

苗劉の変と諸建言

  • 高宗が臨安に幸したとき苗傅・劉正彦の変が起こり、帝が楼上で群臣に事態を問うと、浙西安撫司の孟希によ主管機宜文字が「三軍に問え」と越権発言した。章誼は列を越えてこれを叱責し、事後に希は吉陽軍へ流された。章誼は二階級昇進し倉部員外郎に抜擢された。
  • 両浙で貿易祠牒により軍用資金を調達したが遅延を理由に罷免され、まもなく駕部員外郎に召され、殿中侍御史に遷った。
  • 張浚が陝西を宣撫した際、趙哲の敗退や何ヽの処断の重さについて意見を述べた。
  • 邵青が太平から舟で平江に至り略奪したとき、水軍を駐蹕地に置くことを請い、古の舟師の大・中・小三等の編成を献策、淮南三宣撫使への配備も進言した。
  • 「戦守四策」を上奏し、金人の南侵は宰相の失策(揚州での黄潜善・汪伯彦の油断、建康での呂頤浩の水軍不備)に由来すると論じ、江海・険阻・兵将・糧賦の四事を有能な臣に分担させ賞罰を厳しくすべきと説いた。
  • 詔により保民・弭盗・遏寇・生財の策を問われ、姦吏を除き循良の吏を用いれば民は保たれ盗は弭むと答えた。
  • 明堂の合祭を議した際、胡直儒らの太祖太宗合祀論に対し、経典と典故・儀礼のいずれにも未だ完備しないと反論。皇祐2年(1050年)に始まった明堂合祭は一時の変礼であり、嘉祐7年(1062年)の宗祀で既に誤りが正されたと指摘し、将来は昊天上帝を専祀し太宗を配すべきと論じた(結局実行されず)。

紹興の政績

  • 紹興2年(1132年)大理卿に除せられ、知平江府への異動を宰相が奏したが、帝は「章誼は儒者で獄訟を平恕に裁く」として留めた。まもなく権吏部侍郎、四選(銓選の四科)の条例を整理する編纂を建議した。
  • 刑部侍郎兼詳定一司敕令に転じ、紹興の敕令格式の整理を奏し、祖宗の旧典と新書の欠を照合して定法とすることを提案した。
  • 徽猷閣直学士・枢密都承旨に遷り、漢唐の南北軍・禁衛制度に倣い、神武兵の逃亡や市井の人が多い実情を改め、五軍・諸州から選抜して両衛を編成することを進言した。
  • 紹興4年(1134年)、金が李永寿・王翊を遣わし劉豫への俘虜返還や江の分割を求めた際、参政席益が老母を理由に辞退したため章誼が代わって龍図閣学士・軍前奉表通問使となり、給事中孫近を副とした。雲中で粘罕・兀室と論戦して屈せず、金が蕭慶に書を持たせて難詰させたが章誼はその出所を問い質し、南京では劉豫に抑留されたが計略で帰還、刑部尚書に抜擢された。
  • 帝の親征で淮陰の大捷に扈従、戸部尚書に遷り、発運使制度の整備や戸部左右曹と諸路転運使の連携強化を上奏した。
  • 紹興5年(1135年)病を理由に知温州となり、大旱で米価が高騰した際、劉晏の招商法に倣い米商を招致して価格を安定させ、加官された。
  • 6年、平江に移り、行幸に伴う供給事務を的確に処理し、帯・笏を賜った。
  • 7年建康で再び戸部尚書となり、京西・湖北・淮南の荒廃地に三大将の兵を分屯させ屯田を行う策を上奏した。
  • 端明殿学士・江南東路安撫大使・知建康府兼行宮留守を経て、8年(1138年)62歳(原文は61歳)で卒し、忠恪と諡された。
  • 人柄は寛厚な長者で、台官の弾劾が私怨によるものが多い中、章誼は独り大体を守った。使金に際し老母に知らせず出発した逸話が伝わる。