宋史卷三百七十八 列傳第一百三十七 衞膚敏

衞膚敏、字は商彦。華亭の人。金への使者として国体を守る交渉に尽力した外交官。外戚の不当な昇進を諫めるなど言論官としても活躍した。享年49。

年表(4件)
  • 宣和元年祕書省校書郎として仮給事中で金主の生辰を賀す使者となった
  • 宣和7年再び仮給事中として金へ使し受書の礼などを論争の末に守った
  • 建炎元年矯制の罪を自ら劾したが高宗に嘉賞され衞尉少卿に昇進した
  • 紹興3年召還され早期の江寧遷幸を説いた

出自と対金外交官としての活動

  • 衞膚敏、字は商彦。華亭の人。上舎生から宣和元年進士。祕書省校書郎として仮給事中で金主の生辰を賀す使者となり、金からの賀使が先んじて来ないことによる国体の毀損を懸念し、燕山で待機する案を進言、実際に金使は来ず幣帛のみを置いて帰った。
  • 宣和7年、再び仮給事中として使に赴き、金国事情を伝える許亢宗の警告にもかかわらず「君命を奉じて行く以上、止まれない」と進んだ。金の国書に押字(花押)を璽に代えようとした際、これを強く争い璽に改めさせた。受書の礼で双跪(両膝をつく礼)を求められた際「双跪は北朝の礼、南朝人に強いるべきでない」と論争の末、単跪で受けさせた。
  • 幹離不(金の皇子)との会見で臣下の礼を強要されそうになった際、「北朝の君は一人のみ、皇子郎君も臣下、使者も臣下、両国の臣が君臣の礼で会えば北朝に二君あることになる」と論破し、長揖のみで入室した。誓書の真偽を疑い用兵事を論じて相手を圧倒した。

高麗使と靖康・建炎期の言論

  • 靖康初め帰国し吏部員外郎。高麗の遣使に対し、朝議が「宣問使」に格下げしようとしたのを、高麗優遇の従来方針を維持すべきと退け「接伴使」の称を守った。京師の混乱時には便宜的に詔を称し使者を厚遇し帰した。建炎元年、矯制の罪を自ら劾したが高宗は嘉賞し衞尉少卿に昇進させた。
  • 両河諸郡の世襲蜡書派遣策や、陝西・山東・淮南諸路の城壁修築・清野策、大臣の汴京留守と早期の江寧遷幸を建議。起居舎人として、金軍侵攻時に趙氏を守った臣がわずか一二人に過ぎず、大半が屈節し中には金への諂いで妃嬪を求める者もいたことを弾劾し、紀信(漢の忠臣)に比すべき者がいなかったと批判、偽楚政権下でも同様に忠を尽くした者は稀であったとし、段秀実(唐の忠臣)に比すべき者もいなかったと述べ、罪の等級に応じた厳罰(族誅・誅殺・竄殛・終身斥候)を求めた。
  • 二帝(徽欽)の北遷を悼み、陛下は貶損を重ね(衣食住の簡素化、宮楽の停止)両宮の帰還まで常礼を復すべきでないと上疏。右諫議大夫兼侍読として、行在の土木事業(承慶院・昇陽宮の築造)の中止を求め、黜陟の決定は三省を経るべきと主張。内侍李志道の官位復帰を弾劾。閹寺の登用に反対する持論を展開し、これを止めさせた。

外戚抑制と晩年

  • 后父邢煥・太后兄子孟忠厚の異例の昇進に反対し、中書舎人になった際には司馬光が張方平の参知政事就任に反対した故事を引き自らの去就を問うた。太母(太后)への非法な事々を諌め、忠厚の処遇の不当を三失として指摘。舎人としての職務(封還の慣行)を主張し、進士向烈の答案の不当を巡り知貢挙として弾劾された考官を庇い、集英殿修撰提挙洞霄宮に落ちる。
  • 紹興3年、召還され高宗に涙ながらに意見を述べ、揚州・臨安ともに帝都にふさわしくないとして早期の江寧(金陵)遷幸を説いた。刑部侍郎・礼部侍郎を歴任するも病がちで、苗劉の乱の際は病臥のため参加できなかったことを宰相朱勝非に「坐観成敗」と讒言されたが、死後にその潔白が明らかになった。享年49、大中大夫を追贈。子は仲英・仲傑・仲循。