出自と司法官としての実務
- 王衣、字は子裳。済南歴城の人。門蔭により出仕、明法科に及第。深州・冀州の法曹掾を経て大理評事・寺正。道士林靈素が仏教を毁そうとし、襄州僧杜徳寶の焚身自傷事件を風敎を害するとして流罪にしようとした際、王衣は律に照らし「自傷の罪は杖のみ」と主張したが、靈素は内批を得て強行、王衣は官を停職された。
- 陝西都転運司主管文字、詳定一司勑令所刪定官、通判襲慶府、刑部員外郎、大理少卿を歴任。建炎3年、韓世忠が苗傅・劉正彦を捕らえ献じた際、その従者の中に強制的に従わされた婦女がいたことを指摘し、高宗の理解を得て傅・正彦の妻子以外を釈放させた。范瓊が獄に下された際、その罪(靖康圍城中の上皇強制移送、呉革殺害、張邦昌擁立)を認めさせ死刑に処した上、その親属・佐官を釈放した。
晩年
- 大理卿として、龍徳宮都監王球の盗品事件に際し、高宗の激怒を「隠匿されたら国庫に戻らない」と諫めて寛大に処理させた。裁判で自白偏重を戒め「三問(三度尋問)で自白しない場合は弁明を許すべき」と提案し採用された。刪雑犯死罪47条の編纂に携わり、紹興元年権刑部侍郎、集英殿修撰、刑部侍郎を経て、享年不詳ながら紹興4年に家で卒。質直和易で法を曲げなかったと評された。
史論
- 向子諲は相家の子でありながら臣節をよく修め、陳規は文儒の臣でありながら鎮守に功があり、流俗を抜きん出た存在といえる。季陵は言事において憚らず、盧知原・法原兄弟はともにその才で知られた。陳桷は礼を守り変に応じ、李璆の政には恵みがあったと記すに値する。李朴は権威に屈せず、王庠は志が高かったが晩節にやや衰えがあった。王衣は明恕でありながら刑を厳しく用いなかった。それぞれ器量・見識に優劣はあるが、いずれもその職責を空しくしなかったといえよう。