出自と儀礼論
- 劉珏、字は希範。湖州長興の人。崇寧5年進士。大学時代、中書舎人鄒浩に書を送り忌憚なき諫言を促した。宣和4年監察御史に抜擢、坐言で知舒州、尚書主客員外郎。靖康初め、皇帝の上皇儀礼を巡り、家人礼を退け「大小次を設け皇帝が東階から昇り、拝は君と父の両面の敬を表すべき」と提案、また賜剣履・子孫扶掖の礼制を提案。
- 太常少卿として、唐太宗・明皇の受冊の故事(再行しない先例)を引き粛宗の霊武即位における冊礼の変則を根拠に不要な再行を止めさせた。中書舎人として「開端の戒め」十事(御筆の濫発、無用の営繕、任用の失当、命令の頻繁な変更、大臣の不和、内路の帥の擅命、内侍の恣横、繳奏の抑圧、政事の失信、爵賞の濫発)を上疏し、それぞれが小事に見えても放置すれば禍根となると警告した。
政治論と晩年
- 詹度の都堂での不正な人事禀議(安扶の中書舎人任命への異議)に反対し行下を進めた。伐燕の役で童貫の大挙に賛同しながら金の動向を軽視した詹度を批判し嶺表への流罪を要求。李綱の揚州知事就任にも反対(韓琦・韓絳の敗戦の先例を引き、綱の用兵は多敗で降黜すべきとした)が吏部侍郎馮澥に「両端を持し綱のために遊説した」と非難され、亳州明道宮提挙に落ちる。
- 建炎元年、中書舎人に復し、金軍の残留兵力を警戒し早期の行幸と西兵の温存を上疏。李綱が南陽経営を計画する中、これを財力不足として反対し金陵駐蹕を勧めた。汪伯彦の弟汪潜原が戸部尚書となった際、兄弟の同省任官は不可と論じ潜原を醴泉観提挙に転出させた。
- 給事中として内降・営繕の弊を批判し、孟忠厚・邢煥の外戚人事に反対し封還、忠厚も結局武階に転じられた。吏部侍郎同修国史として淮甸の兵食不備を指摘。金軍が虚を衝いて大挙侵入した際、龍図閣直学士知宣州、のち吏部侍郎に復す。長雨に際し天変・人心・荊陜江淮の守禦策を進言。
- 吏部尚書、隆祐太后の江西遷幸に扈従する端明殿学士権同知三省枢密院事。元祐党籍・上書廃錮人の追復子孫録用を実施。金軍が吉州を攻め太后の船が太和県で衛兵潰走に遭った際、太后を虔州に護送。監察御史張延寿の弾劾を受け自劾し落職、祕書少監に降格・貶衡州。紹興2年、朝散大夫分司西京、梧州で卒、享年55。8年、龍図閣学士追復。吳興集20巻、集議5巻、両漢蒙求10巻がある。