宋史卷三百七十七 列傳第一百三十六 王庠

義門の出自と志節

  • 王庠、字は周彦。滎州の人。累世同居で「義門王氏」と称された。祖父王伯琪は塩井の負担が官戸に偏る不公平を州に訴え、恨みを抱いたまま没した。父王夢易が進士に及第し志を継ぎ、州・刺史・三司に訴え続け、遂に没収された355家の塩井が還され歳額30万斤が免除された。かつて興州を摂した際には川茶運の茶鋪免役制度を導入したが、意見の対立で罷免され没した。
  • 母は欽聖憲粛后の姑。王庠は7歳で文を作り、13歳で父の喪に「父は直道により排斥され、母は柩の前で兄弟の成立を誓った」と述べ、勉学に励んだ。范純仁・蘇轍・張商英に書を送り中立不倚の議論を評価された。蘇軾に経説を寄せ「二帝三王の臣はみな道に志し、自得の難しさゆえに固く守った」と論じ、軾もこれに応えた。

科挙をめぐる不遇と晩年

  • 元祐中、呂陶が賢良方正科に推薦しようとしたが、王庠は宋邦傑にその機会を譲った。まもなく紹聖の党人が用いられ制科は廃止され、庠は「命なり」と嘆じた。崇寧壬午年、能書科で首選となるが、蝗害の際に政治の得失を論じた上書が張舜民に危険視され下第、8年間隠棲。大観庚寅年に舎法が行われ再び応詔を求められるも、母への孝養を理由に辞退。
  • 元祐党禁の際、蘇軾・蘇轍・范純仁を知己とし黄庭堅・張舜民・王鞏・任伯雨と交遊があったことで挙用を拒まれ、田里に退いた。母の死後、八行(八徳)の推薦で太学の考定により天下第一と評され、処士の号を賜り潼川府教授に任じられたが、出身・章服とともに固辞した。太后は姪の恩を弟や甥に譲り田を分与するよう庠に頼んだ逸話もある。没後、孝宗より「賢節」と諡された。宣和年間の恩倖で徽猷閣直学士に至ったが、大邸を構えるなど晩節はやや衰えたと評される。