宋史卷三百七十七 列傳第一百三十六 李朴

出自と剛直な人柄

  • 李朴、字は先之。虔州興国の人。紹聖元年進士。臨江軍司法参軍、西京国子監教授(程頤に評価される)、虔州教授。隆祐太后の廃処(瑤華宮への処分)を不当と論じたことで詔勘され、脅迫にも泰然として動じなかった。赦により汀州司戸。
  • 徽宗即位後、翰林承旨范純礼が「なぜ40余日も陛下に発言しないのか」と問われた際に李朴は「承旨は知りながら言わないのは父たる者の風ではない」と答え、純礼は涙した。右司諫陳瓘の推薦で召対、熙寧元豊以来の政体の変転を批判し、王安石学のみを重んじる士大夫の風潮を戒めた。
  • 蔡京に鯁直(剛直)を嫌われ、三度擬官を阻まれ虔州教授に留め置かれ、さらに元祐学術として師儒の任を解かれ肇慶府四会県令に左遷。姦民の土地収奪の悪弊を廃止させた。承事郎知臨江軍清江県、広東路安撫司主管機宜文字を経て、欽宗の即位で著作郎、半年で国子祭酒まで累進するも赴任前に病没、享年65。

蔡京への抵抗と評価

  • 蔡京が李朴を強引に取り込もうとし禁従を約束したが、李朴は面会を拒み「蔡京にすら会わないのに馮熙載に会うわけがない」と拒絶した。広南在任中、師である孫竢の勤王要請を実賦の増徴でなく既存の常賦から捻出し、漕使鄭良の真臘を利用した安南攻略策を退け辺患を鎮めた。自ら墓誌に「天を心とし、道を体とし、時を用とす」と記した。章貢集20巻。