蜀での実務
- 盧知原、字は行之。湖州徳清の人。父の任で知歙県、近臣の推薦で都堂審察。梓州路転運副使として、承平の弛緩した戎備を立て直すため兵籍を招募し城壁20余里を築いたが、王黼の無節な浪費を批判し罷免された。
- 提点京東刑獄・江西転運副使を経て、綱運の弊害(吏卒の姦)を整理し全国に先んじて京師に上納。直祕閣江淮荊浙等路発運使、祕閣修撰提挙河北。高宗即位後、龍図閣知温州。葉濃の建州陥落・揚勍の処州陥落に対応し甲兵増強・城壁修築で防衛態勢を整えた。
- 帝の東幸に際し海路で金繒10余万を運び、右文殿修撰管内安撫使に抜擢。在郡4年、民は生きて像を祀るほど慕った。孟庾の参謀として活動後、諫官唐輝の弾劾で都督府参謀官に転じ、まもなく祠禄。紹興11年10月卒。
盧法原――蜀の防衛
- 弟の盧法原、字は立之。知雍丘県から太府少卿。遼への使者として派遣後、司農卿を経て吏部尚書、官吏の履歴を体系的に管理する方式を導入し吏の欺瞞を防いだ。王黼に連座し顕謨閣待制に落ちる。紹興元年、張浚の承制で知夔州、龍図閣学士川陝等路宣撫処置副使、端明殿学士。
- 金軍が関輔を攻め、叛将史斌が興州を陥落させた際、諸将の妄動を戒め堅壁策を貫いた。河東経制使王燮の乏食による撤兵を関を開いて受け入れ、ともに史斌を破り興州を回復。盗賊・叛兵の脅威に対し徹底した備えと檄文で人心を安定させ、洮岷から階成、通川文龍から威茂に至る要地に諸将(関師古・劉錡ら)を配置。
- 兀朮の関攻めが呉玠に撃退された際、玠と不和であった法原は「師を出さず糧を送らず功臣を録さない」と訴えられ、詔問に対し自ら弁明したが上には十分に信じられず、憂憤のうちに軍中で卒去。高宗はかつて盧知原に「川陝を法原に任せたのは兄弟ともに才ある者だからだ」と語ったという。