出自と地方行政の実績
- 陳桷、字は李壬。温州平陽の人。上舎貢辟雍、政和2年廷対第三。虞部員外郎などを歴任し、政和7年提点福建路刑獄として、福州で防秋兵の資糧不足による帥臣殺害事件が起きた際、単身乱兵の中に入り禍福を諭して沈静化。首謀者20余人を後に追討し一方を安んじた。
- 紹興3年、金部員外郎から金部郎中。治道の根本を専ら講じ細事に拘泥すべきでないと主張。監司の権限と任期を重視すべきと提言。直龍図閣知泉州、両浙西路提刑として郷県三老の設置や身分に応じた奢侈禁令を定めた。福建路転運副使を経て太常少卿。
- 徽宗御書の編纂に際し、龍図閣から徽猷閣に至る閣官の序列の不整合を指摘し整理を建議。祫祭の礼式(太牢の使用)を旧制に復すよう求めた。
普安郡王出閤の議礼と晩年
- 権礼部侍郎として普安郡王(後の孝宗)の出閤の礼を吏部・太常寺と討論、国本未定の状況から厚礼を主張したが「過重」との批判を受け、吏部尚書呉表臣・礼部尚書蘇符らとともに罷免された。
- 知襄陽府充京西南路安撫使として、襄漢の戦火後の民の疲弊に対し賦税の減免を上奏。金房の兵乱を鎮圧し漢水の氾濫時には自ら兵民を率いて堤防を修復。秦檜執政下、同郷(永嘉)の士が檜に阿って昇進する中、陳桷は職を全うし議礼で忤意して罷免された。享年64で卒。号は無相居士、文集16巻。子は汝楫・汝賢・汝諧、孫の峴は詞学で中書舎人直学士院に至った。