出自と直言
- 季陵、字は延仲。処之龍泉の人。政和2年上舎第三。太学博士として学術の邪正異同を論じ長官の怒りを買い舒城県知事に左遷。太常寺簿・比部員外郎を経て高宗に従い揚州へ。建炎2年、金軍南侵に際し九廟神主を自ら負って避難、起居郎から中書舎人。
- 建炎3年の淫雨に際し、金人の侵略・災異の頻発を天譴と見て、将帥の権が強すぎること(苗劉の乱の例)、宦寺の習の残存(藍珪召還への反発)を批判。洪範の休徴・咎徴の教えを引き、太廟の礼が乱れていること、招安した盗賊の再叛、鑾輿遷移の噂への懸念を述べた。
- 梁揚祖の発運使起用に反対する給事中劉寧止と入れ替わりに起居郎綦崇礼が権給事中となった際、季陵は録黄を封還。防秋の備えと親征の覚悟を求め、百官の跣足奔竄を戒めた。
張浚批判と晩年
- 張浚の川陝等路宣撫処置使としての専断を批判し忤旨で罷免、徽猷閣待制知太平州、落職、復職を経て知温州・中書舎人を辞退。范宗尹の推薦で知臨安府・中書舎人に復帰。
- 対策で四つの深慮すべき事と一つの恃むべき事を論じ、遷幸・幸蜀を巡る朝議の一貫性のなさ、維揚の変・銭塘の変が宦寺や将帥の功とされ朝士が軽んじられる傾向、黄潜善・呂頤浩の人材不用、劉光世・韓世忠・張俊が互いに功を争い救援し合わない実態、自専的な詔命や便宜措置の濫用を批判した。
- 朱勝非の江西帥赴任前に、金軍の駐屯地移動(燕山→河北→京東→淮甸)から侵攻の切迫を警告。范宗尹が偽楚の仕官者を一律録用した政策に反対し、罪の軽重に応じた処遇と、糾弾のみで人材を用いない風潮の是正を求めた。侍御史沈与求に宰執への迎合と弾劾され、洞霄宮提挙に落ちる。
- 紹興元年復職。軍興以来の誥牒強制売却、和買・和糴の実質的な強奪化、兵の衣食の質の劣化、戦況報告の粉飾(負けを1、勝ちを千と偽る)、冗兵の弊害(張浚・劉光世・李綱の三軍がそれぞれ川陝・淮浙・湖広で財政を圧迫)、虚偽の兵籍による功賞詐取などを具体的に指摘し改革を求めた。
- 徽猷閣待制帥広として、恵州の狂乱徒党を招撫で平定。在官3年、享年55で卒。文集10巻。範宗尹への追従(偽命者の一律登用論)や張浚批判の行き過ぎ(陝以西が陛下を知らずと評した点)、内侍王継先の栄州防禦使の制文起草などは君子の評価を得られなかった。