出自と地方防衛の実績
- 陳規、字は元則。密州安丘の人。明法科出身。靖康末、金軍侵入で節度使劉延慶が殺され、その残党祝進・王在が盗となり隨郢復等州を荒らした際、安陸令として勤王兵を率いるも道が塞がれ引き返す。祝進が徳安府を攻めた際、守臣が逃げたため父老の請いで陳規が守事を代行、射士張立を遣わし進を撃退。王在と合流した進が再攻するも連戦連勝で撃退させた。
- 建炎元年、直龍図閣知徳安府。李孝義・張世が数万の兵で偽の詔を称し来攻したが、陳規はこれを詐と見抜き備え、夜襲を撃破。楊進との18日にわたる対峙の末、進が百人の護衛で和を求めた際、陳規は自ら出て人質を交わし、進を感動させ矢を折って誓わせ退却させた。董平の使者が犒(労い)を求めた際、これを斬り首謀者の兵を前鋒として大破した。祕閣修撰、徳安府復州漢陽軍鎮撫使に累進。
順昌の戦い
- 桑仲の乱に対応し徽猷閣待制。李横の攻城(天橋・塡濠)に対し、陳規は自ら軍民を率いて防戦し砲で足を負傷しても屈せず、糧食が尽きても家財を出して士気を鼓舞。横が妓女を要求したが「圍城70日を一婦で解くのか」と拒絶。60人の決死隊が濠橋を焼き火牛を用いて撃退した。
- 龍図閣直学士知廬州を経て、金が河南地を返還した後、知順昌府として城壁を修復・保伍を編成。金軍南下の報を受け、劉錡と協力し防衛計画を立てた(守将配置・斥候募集・郷導間諜)。金の龍虎大王の重兵に対し甲冑を身につけ督戦、神臂弓での反撃と歩兵の伏撃で撤退させた。
- 「敵の勢いを挫くには潜兵で夜襲し敵を疲弊させるべき」との策を献じ、劉錡がこれに従い金営を襲撃し戦果を挙げた。金は兀朮(金の将)に急を告げ、援軍到来の報に諸将が撤退を主張する中、陳規は「進むも死、退くも死。忠を尽くすべき」と主張、劉錡も「府公(陳規)が文官でありながら死守を誓うのに、武人がそれ以下でよいのか」と鼓舞した。
- 兀朮の10余万の大軍による総攻撃に対し、暑さを利用した戦術(正午の暑い時間帯は籠城し敵の疲弊を待つ)で応戦し兀朮を退けた。功により樞密直学士。籠城中の米麦の事前備蓄(金帛による代替輸送)が勝利の要因となった。知廬州兼淮西安撫使として在任中、疾の中でも郡城修復を最後まで督励し享年70で卒。贈右正議大夫。攻守方略が世に伝わる。
屯田策と人柄
- かつて知徳安府時代、営屯田事宜を上奏し、射士(兵士)・民兵の分地耕作、堡砦での防御、平時の田作という制度(水田は畝あたり粳米1斗、陸田は麦豆各5升)を提案、詔してこれを他鎮にも及ぼした。
- 端毅寡言、忠義を自任し施しを好み家に余財を残さなかった。娘の従婢を求めた際、雲夢張貢士の娘で夫を亡くし身を売った女性と知り、娘の嫁入り道具を割いて嫁がせた逸話がある。乾道8年、詔して陳規の「徳安守城録」を刻し天下の諸守将の法として頒布。徳安に廟を立て「賢守」の額を賜り、忠利侯・智敏侯を追封された。