宋史卷三百七十四 列傳第一百三十三 趙開

出自と初期の官歴

  • 趙開、字は応祥。普州安居の人。元符3年進士。財利の源は一つに帰すべきとの持論を持ち、成都路転運判官として宣和6年の上供増額を罷免させ、蒲江六井の増額塩額を整理し「鼠尾帳」を掲げて郷戸の実際の負担を明示した。

茶馬・酒・銭引・塩の改革(数値詳細)

  • 榷茶買馬の五害(黎州買馬の兵員過多、銀絹博馬価の空券発行、榷茶の借入未返済、預俵茶戸本銭の破産、私販の蔓延)を指摘し、嘉祐の旧法に戻し榷茶を全廃、転運司による買馬に一本化することを建議。建炎2年、都大提挙川陝茶馬事に抜擢され改革を実施。茶引による取引制度(1斤あたり春銭70・夏銭50、税0.5+0.5)を導入し、4年で茶引の収益は170万余緡、買馬は2万匹を超えた。
  • 張浚が宣撫処置使として四川に赴くと、趙開は宣撫処置使司随軍転運使を兼ね、財賦を専管。酒法を大変更し、公使酒の廃止・隔槽制度の導入、1石の米につき3000銭余の税を課した。銭引制度も改革し、宣司が偽造銭引30万・盗人50人を摘発した際、張浚が死罪に処そうとしたのを趙開が「宣撫使の印を偽造されても金額を弁済させれば良い」と諫めて止めさせた。
  • 塩法も改革し、鹽引1斤につき納銭25、土産税等9銭4分、通過税7分・住征1銭5分等の細目を定めた。呉玠とは財政方針で対立し、趙開は張浚のもとで軍需を賄い続けたが、蜀の民は疲弊し、席益との対立も生じた。応副呉玠軍需の総額が紹興4年1955万7000余緡、5年はそれより420万5000余緡増加したと具体的数値で報告し、蜀の危機を訴えた。
  • 席益との軋轢から召還され李迨に代えられたが、疾により赴かず、7年提挙太平観、11年卒。

史論

  • 秦檜が国政を握り宋の大計を誤らせたことは論ずるまでもない。張九成の策・胡銓の疏は忠義凛然たるものであり、廖剛が徳望ある人物の再登用を求めたのも、時流に阿るものではなかった。李迨・趙開はいわゆる「治賦を任せうる」人物であったといえよう。