出自と花石綱批判
- 鄧肅、字は志宏。南劍沙県の人。若くして敏才があり文をよくし風儀に優れ談論に長じた。李綱に見出され忘年の交友となる。父の喪では哀毀が礼を超え、芝が廬に生じたという。太学で名士と交わった。
- 東南の花石綱について守令が民を苦しめて搜求する様を詩十一章にして批判し、事務担当者に見られて学校を追われた。欽宗即位後、召対を経て承務郎・鴻臚寺簿となる。金軍の侵攻時には敵営に50日留められた。張邦昌が偽帝を僭称すると、鄧肅は義として屈せず南京へ奔り、左正言に抜擢された。
言論官としての活動
- 朝廷が金に贈った金帛1000万について、金軍陣中で密かに調べたところ将士の数は8万人に過ぎないと分かり、これを上言。金は信賞必罰を文書に頼らず実行するため人々が命令に従うが、宋の朝廷は同等の功に対し賞の遅速や有無の差が大きく、賞罰の権が吏の手中にあると批判し、専立の功賞機関を設けるよう建議、上はこれに従った。
- 偽命(張邦昌政権)に仕えた臣を三等に分けて処罰することを求め、王時雍・徐秉哲・呉幵・呂好問・莫儔・李回ら執政級の者、胡思・朱宗周・懿文・盧襄・李擢・范宗尹ら侍従級の者、勧進文・赦書を撰した顔博文・王紹、邦昌改名に倣った何昌言(善言と改名)・昌辰(知辰と改名)らを重罪とし嶺外に配することを求めた。次に馮澥・曹輔ら執政侍従で偽庭に称臣した者、李㑹ら台諫、黎確・李健・陳戩ら奉使者を次罪とし遠地編管を、その他庶官には赦しつつ台諫侍従には二度と用いないことを提案した。上はこれに従った。
- 耿南仲父子が渡河の戦いを妨げ勤王の兵を阻んだことを弾劾し正典刑を求めた。范訥が留守として東京から出師しつつ風を見て先に逃げたことを弾劾し罷免させた。内侍陳良弼の民女強制徴発を連章で論じ、朝廷官制の遅滞を批判し、太祖太宗の法簡明・賞罰迅速の故事を引いて祖宗官制の速やかな討論・施行を求めた。3ヶ月足らずで20の疏を上げ、多くが採用された。
- 李綱が罷免された際、綱の学は正しく術は疎いが「身を以て国に徇う者」であるとして罷免の不当を訴え、両河の民・叛臣処罰・外夷への備えの三点で綱の不在の悪影響を論じたが、執政の怒りを買い吏部に送られ罷免された。紹興2年、福唐で盗を避けて疾により卒去。