宋史卷三百七十四 列傳第一百三十三 李迨

李迨、東平の人。曽祖李参は尚書右丞。地方・財政官として実務手腕を発揮し、四川都転運使として茶馬・銭引などの詳細な収支を朝廷に報告した実務官僚。

年表(4件)
  • 建炎3年1129年金軍が行在を犯した際、経賦の重要籍簿を携えて避難した
  • 紹興5年両浙路転運使として漕運改革を提案した
  • 紹興9年京畿都転運使となり東京留守孟庾の金への内通を察知した
  • 紹興18年卒した

出自と地方・財政官としての実務

  • 李迨、東平の人。曽祖李参は尚書右丞に至った。太学入学後開封に居住し、渤海県尉から出発。州県の民兵を整えた実績で朝廷に推薦され、通判済州となる。高宗が大元帥として済州を通過した際、太守に代わり州事を行い、軍需・儀物の調達を的確にこなして高宗の賞賛を得た。
  • 高宗即位後、山東輦運・金部郎中を歴任。建炎3年、金軍が行在を犯した際、経賦の重要籍簿を携えて避難した。父の喪に服し起復。苗傅・劉正彦の乱平定に際し軍食供給に尽力。

四川財政の整理と数値記録

  • 紹興5年、両浙路転運使として、宋代の首都汴京への漕運が官船・兵卒により行われ民に負担をかけなかった旧制と対比し、浙右での漕運が民間船舶に依存し民を苦しめている実情を指摘、船場を設けて募兵で牽引させる改革を提案。
  • 四川都転運使兼提挙成都路茶事・陝西買馬などを歴任。関陝が失われたため茶馬の管轄を都大提挙茶馬司に一本化し冗費を省いた。歳ごとの収支を具さに報告し、紹興4年の収入銭物3342万余緡・支出関51万余緡、5年収入3060万緡・支出関1000万余緡、6年未詳、7年収入3660万余緡・支出関161万余緡と記録。歳計に不足があれば銭引を追加発行し、紹興4年576万道、5年200万道、6年600万道を増発したが料額が過多となり価格が下落したため増発を止めたと報告。
  • 歳収のうち上供進奉等の窠名1599万は四川旧額の歳入であり、勧諭激賞等の窠名2068万は軍興後の増収であると分析し、これは劉晏の時代(天下歳入緡銭1200万のうち管榷が半分)と比較して四川の榷塩榷酒の歳入1091万は劉晏の榷収を上回り、諸窠名は劉晏の歳入の3倍に達すると指摘した。折估および正色米265万石についても、紹興6年の官兵数6万8449人(官員1万1007人、軍兵5万749人)から見て過大であり、冗濫は官員にあり軍兵にはないと論じた。
  • 蜀の民が最も苦しむのは糴買・般運であるとし、屯田による漕運負担の軽減を提案。漢中の地から25万余石を見込み、興元・洋州で夏麦50万石、岷州で20万石、営田所収12万石、計57万石を確保すれば川路の糴買般運を全廃できるとした。呉玠と意見が合わず祠禄に退く。
  • 紹興9年、金が三京を帰した際、京畿都転運使となり、東京留守孟庾が北使と密通していることを察知して訴訟に。金の脅しにも「首は断てても膝は屈しない」と応じた。孟庾は結局金に降ったが、李迨は疾により祠禄に退き、後に龍図閣待制知洪州、紹興18年卒。