出自と地方官
- 廖剛、字は用中。南劍州順昌の人。陳瓘・楊時に学び、崇寧5年進士。宣和初め漳州司録から国子録・監察御史に抜擢され、蔡京執政下でも直言を避けなかった。親の老いを理由に興化軍知事に出た。欽宗即位後、右正言に召されたが父の喪に服し、工部員外郎を経て母の疾により辞す。
- 紹興元年、盗賊が近郡で蜂起し順昌の民が廖剛を頼りとした際、剛は投盗者を諭して帰業させ、長子廖遅を賊のもとへ遣わし信義によって賊を退散させた。提点刑獄を経て吏部員外郎となり、天子は親兵を自ら統べるべきと説き、強幹弱枝の策を献じた。会稽を久駐の地とせず建康を経営すべきと上疏。
朝廷での言動と秦檜との対立
- 起居舎人・権吏部侍郎兼侍講、給事中を歴任。屯田による軍糧確保を献策し、章惇・蔡卞の罪を追罰した際にその子孫の再登用に反対して詔書を封還した。
- 建国(皇太子冊立)の号を正すべきと上疏し、高宗はこれに動かされ廖剛を召して御史中丞に任じた。姦邪の摘発は大体を務めるべきとし、経費不支・盗賊不息・事功不立・命令不孚・兵驕官冗の弊を上奏。徽宗崩御後も朔望に群臣が淵聖(欽宗)に遥拝することの礼の是非を論じた。
- 殿前司の強制徴兵や大将の恃功による違法を厳しく追及し、鄭億年(秦檜の縁者)を疏劾して秦檜の怒りを買った。金の盟約破棄に際し徳望ある旧相の起用を求め、秦檜に警戒された。工部尚書に転じ、王次翁が中丞となると、廖剛は鄭億年を面詰し、次翁・何鑄に「劉昉・陳淵を朋比として薦めた」と弾劾され、徽猷閣直学士提挙亳州明道宮に落ちて致仕。紹興13年卒。四子(遅・過・遂・遽)はみな要職に就き、邦人は「万石廖氏」と称した。