宋史卷三百七十四 列傳第一百三十三 胡銓

胡銓、字は邦衡。廬陵の人。秦檜・王倫・孫近を斬るべしと激烈な上疏を行った剛直の士。和議に終始反対し、南への長期の謫居を経て孝宗朝で秘書少監・起居郎など要職を歴任した。諡は忠簡。

年表(7件)
  • 建炎2年1128年淮海の試策で高等第を目指したが直言を忌まれ第五等に落とされた
  • 紹興5年1135年呂祉の推薦で対策に応じ枢密院編修官となった
  • 紹興18年新州守臣張棣の告発により吉陽軍に謫された
  • 紹興26年秦檜死去により衡州に量移した
  • 紹興31年自由の身となった
  • 紹興8年1138年秦檜・王倫・孫近を斬るべしと上疏し除名・昭州編管となった
  • 隆興元年秘書少監、起居郎に昇った

出自と最初の上疏

  • 胡銓、字は邦衡。廬陵の人。建炎2年、高宗が淮海で士を試した際、天道は民に本づくと問われ、湯武は民に聴いて興り、桀紂は天に聴いて亡んだと答え、宰相は晏殊に及ばず、枢密・参政も韓琦・杜衍・范仲淹に及ばないと批判する策を万余言記した。高宗はこれを異とし高等第に置こうとしたが、直言を忌む者に妨げられ第五等に落とされた。
  • 撫州軍事判官に任じられる前、隆祐太后が金軍を避けて贛州に逃れた際、漕運の檄によって本州の幕に従事し郷兵を募って官軍を助け、承直郎に転じた。父の喪に服し、蕭楚に春秋を学んだ。紹興5年、張浚の督府に召されたが赴かず、後に兵部尚書呂祉の推薦で対策に応じ、枢密院編修官となった。

秦檜・王倫・孫近を斬れとの上疏

  • 紹興8年、秦檜が和議を主導し、金の使者が「詔諭江南」の名目で来たことに対し、胡銓は激烈な上疏を行った。要旨は次の通り。
  • 使者王倫はもと市井の無頼で、宰相の無定見によって使者に立てられた者であり、天下の人が切歯する対象である。今、金が「詔諭江南」の名で使者を送るのは、宋を臣妾扱いし、劉豫と同様に扱おうとするものである。劉豫は金に臣従したが結局縛られて父子ともに虜となった。祖宗の天下・祖宗の位を金の藩臣の地位に貶めてはならない。
  • 陛下が一度膝を屈すれば、祖宗の霊は夷狄に汚され、天下の士大夫はみな左衽(夷狄の服)となる。三尺の童子ですら犬豕に拝させれば怒るのに、堂々たる大国が醜虜(金)を拝することは童孺すら恥じることである。
  • 王倫の言う「膝を屈すれば梓宮(徽宗の柩)が還り、太后が復り、淵聖(欽宗)が帰り、中原が得られる」との説は、変事以来主和派が繰り返してきた口実だが、一度も実現していない。虜の情偽はすでに明らかである。
  • 梓宮・太后・淵聖・中原のいずれも決して得られず、一度屈した膝は二度と伸ばせない。臣は王倫を斬るべきと考えるが、秦檜も腹心の大臣でありながら陛下を石晋(後晋、契丹に臣従した政権)の轍に導こうとしている点で同罪である。礼部侍郎曾開らが古義を挙げて反論すると、秦檜は「侍郎は故事を知るが私は知らぬのか」と厲声で叱った。これは秦檜が非を通し諫めを愎(こば)む証であり、その罪は孔子が管仲を評した「微管仲、吾其被髪左衽矣」の言に照らせば、秦檜は管仲の罪人でもある。
  • 参知政事孫近は檜に付和雷同するのみで政事堂で三度問うても「已に台諫侍従に議させた」としか答えない。臣は秦檜・孫近もともに斬るべきと考える。臣は三人の首を藁街に竿にかけ、虜使を留め無礼を責めて問罪の師を興すことを願う。それがかなわねば東海に身を投げて死すのみで、小朝廷にとどまって生を求めることはできない。
  • この上疏により秦檜は胡銓を「狂妄凶悖・鼓衆劫持」として除名し昭州に編管させたが、給舎・台諫・朝臣の多くが救済を求めたため、広州の塩倉監に減刑された。翌年、威武軍判官に移されたが、諫官羅汝楫の弾劾で除名・新州編管。18年、新州守臣張棣が胡銓と客の唱酬を「謗訕怨望」と告発し吉陽軍に謫された。26年、秦檜死去により衡州に量移。
  • 胡銓の最初の上疏を興国の進士呉師古が刻んで広め、金人はこの書に千金の懸賞をかけたという。胡銓の広州謫の際に啓事で祝った朝士陳剛中、新州謫の際に詩を贈った同郡の王廷珪も連座し、師古は袁州、廷珪は辰州、剛中は虔州安遠県に流されて死んだ。31年、胡銓は自由の身となる。

孝宗即位後の活動

  • 孝宗即位後、奉議郎知饒州に復し、修徳・結民・練兵・観釁を説いて召対を受け、吏部郎官に除された。隆興元年、秘書少監、起居郎に昇り、史官の職掌に関する四つの改善(記注を進呈すべきでない、二史を殿の適切な位置に立たせる、二史を分日で前後殿に侍立させる、史官の直前上奏の権を保障する)を上疏し、詔してこれに従った。
  • 国史院編修官を兼ね、礼記を講じて「君は礼を以て重しとし、礼は分を以て重しとし、分は名を以て重しとする」と述べた。また建康に都を置くことを進言し、漢の高祖・光武の故事を引いた。
  • 大将李顕忠が金帛を私し邵宏淵と争って宿州の軍が潰れた際、胡銓は小衂(小敗)で挫けぬよう上疏。旱・蝗・星変により政事の欠失を問う詔が下ると、胡銓は春秋の災異記述の法に依り、政令の欠失十事と上下の情の不合十事を数千言で論じ、堯舜の明四目達四聡、逆に趙高・王氏・何進・朱异・虞世基李密・張九齢逐放の故事を挙げ、召還された賢者(張燾・辛次膺・王大寶・王十朋)が次々に去っていく中、自分だけが残っていることを述べた。
  • 周世宗が劉旻を破った際に敗将何徽ら70人を斬って軍威が上がった故事を引き、信賞必罰の重要性を説いた。金人の甘言による和議誘導を戒め、「和」の字を口にせぬよう願った。張浚の子栻への金紫下賜に反対し、「功臣の子にこのような待遇は不当」と繰り返し封還した。
  • 紹興末、和戎の議で侍従台諫14人のうち和議賛成・可否半々の中、独り反対したのは胡銓のみであった。京師失守は耿南仲の主和に始まり、二聖播遷は何㮚の主和に、維楊失守は汪伯彦・黄潜善の主和に、完顔亮の変は秦檜の主和に、それぞれ由来すると論じた。

晩年

  • 金の三大将(蒲察徒穆・大周仁・蕭琦)が投降し節度使となった際、胡銓は南朝への内附を優遇しつつも湖広へ移して後患を絶つべきと献策した。
  • 兵部侍郎として、災異により減膳した際に「振災こそ急務であり、議和こそ闕政である」と論じ、靖康以来40年で3度の大変がすべて和議に由来すると述べた。李沆・王旦の故事(真宗朝、李沆が講和に反対し、後に王旦がその先見を悔いた話)を引きつつ、講和がもたらす「弔すべき十事」(可弔者十)を、海泗の藩籬喪失、両淮・大江・江浙の防衛破綻、紹興戊午の和議破棄と逆亮の変、帰正人の処遇問題、府庫窮乏、歳幣・私覿・賀正生辰・泛使の重い財政負担、国号・拝礼など体面上の屈辱、最終的に稱臣・請降・納土・銜璧・輿櫬に至る危険、を挙げて論じた。逆に和議を退ければ「賀すべき十事」があるとし、乾剛独断で使者(魏杞・康湑ら)を召還し戦意を鼓すことを求めた。
  • 符離の敗戦後、唐鄧海泗の四州を金に割譲する議論が起こると、胡銓は淮東の防備措置に当たり、金将僕散忠義・紇石烈志寧の80万と号する大軍による攻勢の中、劉宝が楚州を棄て王彦が昭関を棄て濠滁が陥落したが、高郵守臣陳敏だけは射陽湖で敵を拒んだ。大将李寶が密詔を求めて出兵を渋ったため、胡銓はこれを弾劾し、李寶はようやく出師した。厳冬に河が氷結した際、胡銓は自ら鉄槌で氷を割り士気を鼓舞して金軍を退けた。
  • のち集英殿修撰として知漳州・泉州、工部侍郎として少康が「一旅」で夏の禹の業を復した故事を挙げ、四海を有する陛下がなお恢復の効を挙げていないことを説いた。寶文閣待制、敷文閣直学士を経て致仕。廬陵に帰り経学の著述に専念し、易・春秋・周礼・礼記の解を著して秘書省に蔵された。復官して龍図閣学士、端明殿学士を歴任。忠簡と諡され、澹菴集100巻がある。孫の槻・榘はいずれも尚書に至った。