出自と学問
- 張九成、字は子韶。その先祖は開封の人だが、銭塘に移り住んだ。都に遊学し楊時に師事した。権貴の者が人を介して幣帛を贈り「私に付いて遊学すれば館閣に推挙しよう」と誘ったが、九成は「王良は嬖奚の車に乗るのを恥じたという。私が富貴な者の食客になれようか」と笑って断った。
- 紹興2年、高宗が進士の試策を行い、直言する者を高い等第に置くよう考官に命じた。九成は策文で、禍乱は天が聖人を生む契機であるとし、剛大の心を持ち憂いに屈するなかれと説いた。金には必ず滅ぶ理があり(好戦・故俗を失う・人心の不服)、劉豫は夷狄に身を委ねた児戯に等しい存在であり恐れるに足らないと論じた。また宦官の名が聞こえることの不祥、二聖(徽宗・欽宗)を思う心を忘れぬことなどを説いた。楊時はこの答案を評価し、九成に書を送って「中興以来の廷対でこれに勝るものはない」と称えた。
地方官と朝廷での言動
- 鎮東軍簽判に任じられ、吏の民を欺く塩の密売を提刑張宗臣が強引に数十人逮捕しようとした際、九成はこれを諫めて争い、宗臣の怒りを買った。九成は檄を投じて任地を去り、以後多くの学徒が門下から出た。
- 趙鼎の推薦で太常博士に召され、著作佐郎・著作郎を歴任。宋の家法は「仁」にあると論じ、刑罰を省くことを訴えた。浙東提刑を辞し、宗正少卿・礼部侍郎兼侍講・権刑部侍郎を歴任。大辟(死刑)の案件を精査し冤罪を晴らしたが、褒賞を辞退した。
- 金との和議が議論された際、趙鼎に「金は実は戦いに疲れているのに虚勢を張って中国を脅している」と述べ、十の理由を挙げて対応を説いた。秦檜に和議への同調を迫られても異議を曲げず、経筵で漢代の災異の故事を講じて秦檜の怒りを買い、邵州に左遷された。任地では倉庫が窮乏していたが、民に負担をかけることを拒んだ。
秦檜との対立と晩年
- 邵州での在任中、中丞何鑄に「矯偽で世に阿る」と弾劾され趙鼎に連座して免官。喪に服した後、秦檜の意向で「朋党を畏れぬ者」として宮観の閑職に落とされた。
- 径山の僧宗杲と交わりがあったため、秦檜はこれを警戒し、司諫詹大方に「宗杲と結んで朝政を誹謗した」と弾劾させ、南安軍に14年謫居させた。その間、書を手にして立ち続けたため足跡が磚に残るほどであったという。広南の帥が金銭を贈ろうとしたが、九成は「みだりに受け取れない」とすべて返した。
- 秦檜の死後、知温州・戸部に起用されたが、軍糧督促の弊害を訴えて辞し、数ヵ月後に病没した。経学を深く究めたが、若くして仏教徒とも交わったため議論に偏りがあったとされる。宝慶初め、太師を追贈され崇国公に封じられ、諡は文忠。