宋史卷三百六十八 列傳第一百二十七 胡閎休

兵学者としての生涯

  • 胡閎休、字は良弼。開封の人。宣和初年、太学在学中に兵書2巻を著した。靖康初年、兵科の試に優等で及第し承信郎に補せられた。金軍の汴京包囲では地を分けて守り、二帝(徽宗・欽宗)が金営に赴いた際は義士を集めて奪還を図ろうとしたが何㮚に止められた。二帝北遷後、范瓊が勤王師を解散させようとした際「勤王師は進むべきで退くべきでない」と主張し、靖康の年号を記さぬ檄を密かに得て涙し、辛道宗に従い南渡した。湖湘の盗賊対策で「致冦禦冦」二篇を著し、招撫か討伐かの議論に対し天地の気の理を説き、これにより岳飛が招討使に任じられた際に招かれ主管機宜文字となり、鍾子儀誅殺の功で成忠郎に進んだ。岳飛の冤死後、憤りのあまり門を閉ざし病と称し10年後に卒した。『勤王忠義集』を家に蔵していたという。孫の照は徳安太守。

史論

  • 王徳は威畧に優れ、早くから劉光世に隷しつつその頼りがたさを見抜き、晩年は張俊に従って功名を全うした。その進退の見極めは賢明であったといえよう。王彦は家を棄てて国難に赴き、たびたび強敵を破って河朔に威を轟かせたが、晩年は兵柄を奪われ郡治に用いられた。人材の用い方を誤ったことは惜しまれる。魏勝は甲兵糧餉もない中から興り、数千の烏合の衆で金の数十万の軍に抗し、遂に一州を守り抜いて当時を震わせた。壮なることである。しかし諸将に忌まれ援を得ぬまま戦死したことも惜しまれる。張憲ら五人はいずれも岳飛の部将として敵に畏れられた一時の傑物である。しかし戦死した者もあれば憤死した者もあり、憲は飛の獄に連座せずとも冤罪で死んだ。悲しいことである。