出自と岳飛麾下での武功
- 牛臯、字は伯逺。汝州魯山の人。金の侵攻に対し衆を集めて戦い、翟興の推薦で保義に補せられた。杜充留守下、楊進討伐で連勝、金の再侵にもたびたび戦捷を重ね果州団練使・中軍統領に進んだ。西京南路提点刑獄を兼ね、寳豐の宋村での金軍撃破、鄧家橋の戦い、偽齊が金に借兵して侵攻した際の丹霞での伏兵戦などで功を重ね、安州観察使・蔡唐州信陽軍鎮撫使・知蔡州を歴任し親衛大夫を加えられた。
- 岳飛が江西湖北を制置し中原回復を図った際、臯は飛の軍に隷し唐鄧襄郢州安撫使に抜擢された。偽齊・李成の襄陽侵攻に対し随州奪還、廬州救援では「牛臯在此」と一言で敵を潰走させ、追撃30里で副都統や千戸・百戸を多数討ち取った。楊么討伐では投水した么を自ら追って捕えた。武泰軍承宣使などを歴任し捧日天武四廂都指揮使・成徳軍承宣使に進んだが、紹興17年(1147年)田師中の大会の後に急死。世には秦檜が師中に毒を盛らせたのではとの噂があった。「61歳、官は侍従に至り不足はないが、南北通和のため馬革に屍を裹めず牖下で死ぬのが残念だ」と語ったと伝わる。
紹興10年の遠征と岳飛帰朝後の余波
- 紹興10年(1140年)金の渝盟後、岳飛の命で王貴・董先・楊再興・孟邦傑・李寳らと共に東西京・汝鄭頴陳曹光蔡諸郡を経略、梁興は太行忠義と連携し河東北州県を糾合、諸将が各地で連戦連勝(李寳の曹州・宛亭・渤海廟の捷、董先・姚政の頴昌の捷、劉政の中牟の捷など)を収めたが、岳飛の召還により中原回復は未完に終わり、世はこれを恨みとした。