宋史卷三百六十八 列傳第一百二十七 魏勝

海州奪還と山東経略

  • 魏勝、字は彦威。淮陽軍宿遷県の人。智勇に優れ弓馬に長じ、山陽に移り住んだ。紹興31年(1161年)金の南侵準備を見て「今こそ好機」と義士300を率い漣水軍・海州を無血に近い形で回復(郡守高文富の抵抗のみ撃破)。朐山・懐仁・沭陽・東海の諸県も帰順させ租税を免じ倉庫を開き、忠義士を五軍に編成し都統制を自任した。左軍統制董成の独断進撃を止めようとしたが従わず、沂州を強襲して降伏させたものの反撃を受けかけ、勝は成を釈した。金の同知海州事䝉恬鎮国の1万余の軍を新橋で伏兵戦により撃破、蒼山に囲まれた砦を救援する激戦(数十騎で金軍を突破)も行った。

海州死守と如意戦車の考案

  • 金軍の海州包囲では、水絶ちに耐え黙祷で雨を得るなどの逸話を交えつつ7日間の攻城戦を凌ぎ、李寳の膠西での金水軍撃破(火計で焚船)とも連携して撤退させた。忠義士将朱震・褚道を通じて李寳が朝廷に功績を報告するまで、勝の名は中央に知られなかった。金主亮の南侵の際も海州で持ちこたえ、亮の死後には自ら考案した「如意戦車」(獣面木牌・大槍・軟牌を備え兵員を守りつつ機動する車両、床子弩を備えた弩車も併用)の図式を朝廷に献じ、諸軍の規範となった。
  • 隆興元年(1163年)督府の招きで閤門宣賛舍人・山東路忠義軍都統制兼鎮江府駐劄御前前軍統制・知海州となる。督府の招撫使賈和仲の讒言により一時解職されたが誣告と判明し復職、鎮江御前後軍を海州に配し忠州刺史に転じた。海州西南の孤山対策として重城を築き、如意戦車・砲車を数百両整備するなど守備を固めた。

清河口の戦いと戦死

  • 隆興2年(1164年)和議に伴い海州の戍を撤し知楚州となり、清河口の防備を専管したが、和議未定のまま金兵が舟で清河口に迫った際、都統制劉寳が講和中を理由に増援を拒み、勝は矢が尽きるまで単独で戦い続けた。「私は此処で死ぬ、脱した者は天子に報告せよ」と語り、淮陰東18里で矢に当たり落馬して45歳で戦死した。保寧軍節度使を贈られ謚忠壮。鎮江府江口鎮に廟を立て「褒忠」の号を賜り、後に戦没地にも祠が改められた。二子(郊・昌)にも官と賞が与えられた。劉寳は救援を怠った罪で節鉞を削られ瓊州に流された。淳熙15年(1188年)孝宗は「魏勝の子には優遇を」と語り、その子の郊を両浙西路馬歩軍副総管に任じた。