出自と八字軍の結成
- 王彦、字は子才。上黨の人。性は豪縦で韜略を好んだ。种師道に従い夏国に二度入り戦功を挙げた。金人の汴京侵攻に際し家を棄てて自ら赴き、河北招撫使張所に才を認められ都統制として岳飛ら11将・7千人を率い黄河を渡り金軍を撃破、衛州新鄊県を回復した。金の大軍に包囲され潰囲したが、共城西山に留まり両河の豪傑と結び再挙を図った。金の追及に遭い、部曲は自ら顔に「赤心報国、誓殺金賊」の八字を刺青して結束を示し(八字軍の由来)、傅選・孟徳・劉澤・焦文通ら忠義の首領十余万が付き従った。宗澤の命で東京への進軍を果たし、宗澤の後を留守司に託し行在へ赴いたが、和議路線の黄潜善・汪伯彦に忤い免対とされ、武翼郎・閤門宣賛舍人・御営平冦統領に留められた。
蜀の防衛と晩年
- 知樞宻院事張浚の宣撫川陝に従い前軍統制、富平の戦いに際し独り慎重論(利閬興洋を固め五路の援を待つ)を唱えたが用いられず、利路鈐轄・金均房州安撫使・知金州に転じた。桑仲の30万の軍が金州白土関に迫った際、旧部下の桑仲からの通牒を退け「敵に道を貸せば大事が去る」と決戦を選び長沙平の伏兵戦で撃破。紹興元年(1131年)李忠の乱では一時金州の関を失うも秦郊での伏兵戦で挽回、乾祐県を回復した。桑仲討伐後も王闢・董貴・祁守中らの残党を平定、偽齊の郭振討伐でも秦州回復に貢献。紹興3年(1133年)兀术侵攻に対し撒離喝の急襲を受け石泉県・達州へ後退したが饒風関では防衛に失敗、その後漢隂県で周貴を破り金州を回復した。
- 荆南府での屯田経営、襄陽府での岳飛への嫌によって前護副軍都統制・督府参謀軍事に任じられ、八字軍1万を率いて行在に赴くも母の喪により辞退を願い出たが許されず、浙西淮東沿海制置副使として通州料角に屯した。軍政不振の責で貶秩され邵州観察使・知邵州となり、紹興9年(1139年)50歳で官途にて卒した。建炎初年に大敵をたびたび破り河朔に威名を轟かせながら、晩年は和議路線の下で兵柄を奪われ郡治にとどめられたことを士論は惜しんだ。親に孝、官に廉であり、子弟の戦功も推賞を求めず、死に際し弟姪に家財を均分するよう命じた。