宋史卷三百六十八 列傳第一百二十七 王徳

王徳、字は子華。通逺軍熟羊砦の人。「王夜叉」と称された勇将。姚古・劉光世・韓世忠の下で武功を重ね、藕塘・柘臯の戦いなど紹興年間の主要な合戦で活躍した。

年表(8件)

出自と姚古の下での武功

  • 王徳、字は子華。通逺軍熟羊砦の人。武勇により応募し姚古の熙帥に隷した。金軍来襲時、懐澤間の偵察で1人の酋を斬り帰還、進武校尉に補せられた。姚古の再度の命で16騎により隆徳府に潜入し偽守の姚太師を捕え、周囲を殺傷したことから「王夜叉」と呼ばれた。建炎元年(1127年)、勤王師として道を急ぎ入闕、劉光世に隷し済南の李昱・池陽の張遇を平定、李成討伐でも先鋒として活躍、賊が光世本陣を包囲した際は突囲して光世を救い、李成を奇襲で撃破し武畧大夫を授けられた。

張昱・張彦の乱と韓世忠配下時代

  • 建炎3年(1129年)金軍の楊州侵攻で西軍が多く潰える中、和州救援に赴き叛将張昱を斬った。苗劉の乱では光世に従い義兵を挙げ、乱後は韓世忠に属したが、世忠の親将陳彦章に殺害を図られ返り討ちにし、苗瑀・馬柔古を斬獲したが、擅殺の罪で世忠に訴えられ大理獄で審理、侍御史趙鼎が死罪相当と判断したところ帝が特に赦し、郴州に編管された。光世が空頭の黄敕を得て徳を復職させ、王念経・劉文舜の反乱鎮圧でも功を挙げた。
  • 建炎4年(1130年)光世が京口に鎮した際、都統制として金軍を退け、揚州で単騎で敵将を刺し討ち取るなど活躍。紹興元年(1131年)秀州の水賊邵青討伐で、火牛戦術を見破り「古法だから二度は通用しない」と静かに構え矢の一斉射で大破し、邵青は自ら縛について降伏した。紹興3年(1133年)光世が江淮宣撫使として建康に移屯した際、代わって韓世忠が来ると徳は道端に立ち「陳彦章擅殺の罪により死を賜りたい」と申し出たが、世忠は「好漢と知っている、些事にこだわらぬ」と手を握り酒宴を開いた。

藕塘・柘臯の戦い

  • 知鞏州・熙河蘭廓路兵馬鈐轄・知蘭州を経て行営左護軍前軍統制。紹興6年(1136年)劉豫が麟・猊に30万を率いさせ侵攻した際、藕塘の戦いで大破に貢献、亳州へ追撃し糧舟4百艘を得た。武康軍承宣使・相州観察使を経て熙河蘭廓路副総管・行営左護軍都統制として合肥に駐屯、劉光世罷免後は酈瓊の副となったが、瓊は徳の下に立つのを恥じて叛乱し劉豫に走った。紹興10年(1140年)頴昌解囲後、宿州奪還を命じられ、金将高統軍の陣を偽装撤退で油断させ夜襲で急襲、馬秦・耶律温を降伏させ亳州も攻略。策功第一で興寧軍承宣使・龍神衛四廂都指揮使などに進んだ。
  • 紹興11年(1141年)金軍の合肥侵攻に対し「淮は江の蔽い、これを棄てるのは唇亡歯寒」と主張し渡江を強く進言、和州を奪還し柘臯で兀术の鉄騎と対峙、酋を弓で射殺し長斧の兵で大勝した。劉錡から「昔から公の威略が神の如しと聞いていたが今果たしてその通りだ、兄事したい」と称えられた。清逺軍節度使・建康府駐劄御前諸軍都統制などを歴任し、紹興25年(1155年)卒し検校少保、後に少傅を追贈された。子の琪・順も驍勇で知られた。