宋史卷三百六十六 列傳第一百二十五 劉錡

徳順軍の人、字は信叔。劉仲武の子で弓の名手として知られた。紹興10年の順昌の戦いでは寡兵で兀术の大軍を撃退し「中興の名将」に数えられたが、柘臯の戦いの後は讒言により罷免され不遇の晩年を送った。金主完顔亮の南侵時に再び起用されるも病を発し没した。諡は武穆。

年表(5件)

出自と初任

  • 劉錡、字は信叔。徳順軍の人。瀘州軍節度使・劉仲武の第九子。容姿優れ弓の名手で、声は洪鐘のよう。父に従い牙門で水を満たした斛に矢を射て命中させ、水が漏れるとまた一矢で塞いだといい、その精妙さに人は感服した。宣和年間、高俅の推薦で閤門祗候を授けられ、高宗即位後に召見され閤門宣賛舍人に特任、知岷州・隴右都護として夏人としばしば戦い勝利、夏人の子は「劉都護来たる」と聞けば泣いて怖れたという。張浚が陝西を宣撫した際、涇原経略使兼知渭州に抜擢されたが、富平の戦いで五路の師が潰えると錡も渭州を守り切れず金に降り、貶秩されて知緜州兼沿邊安撫となった。

順昌の戦い(紹興10年/1140年)

  • 紹興3年(1133年)復官、宣撫使統制として和尚原防衛に従事。紹興10年(1140年)、金人が三京を返還した後、東京副留守として節制軍馬となる。所部の八字軍わずか3万7千人。渦口で暴風に遭った際「これは賊の兆しだ」と兼程して進み、5月に順昌に至った。金人が盟約を破って侵攻すると、知府事陳規と協議し「城中に糧があれば共に守れる」と籠城を決意。諸将は精鋭を殿に江南へ撤退することを進言したが、錡は「東京は失ったが全軍がここにあり城もある、なぜ棄てるのか」と拒絶し、部将許清(夜叉)もこれに賛同、士気は大いに上がった。舟を沈めて退路を断つ覚悟を示し、家を寺に置き、婦人も刀剣を研いで戦意を示した。癡車の輪轅を城上に据え、民家の戸を集めて城壁を覆うなど守備を固めた。
  • 城外の伏兵で金の千戸阿黑らを捕え、韓将軍の陣が白沙渦にあると知り夜襲。三路都統・葛王褒が龍虎大王と合流し3万で城を囲むも、錡が城門を開いて疑わせ近づかせなかった。羊馬垣を使った城防で敵の矢を防ぎ、克敵弓・神臂強弩で反撃、鉄騎数千を破り鼎州観察使・樞宻副都承旨・沿淮制置使を授けられた。夜襲を重ねて金軍を疲弊させ、竹を折った合図で連携する奇策も用いた。兀术が自ら援軍を率いて7日で順昌に至ると、諸将は撤退を勧めたが錡は「朝廷が15年養った兵は緩急の時のためのもの、進むのみで退くべきではない」と述べ、偽の投降者を使って兀术を油断させる計を行った。
  • 大戦では兀术が浮橋5所を潁河に架けて渡らせようとしたが、錡は潁の上流に毒を仕込み河水を飲めば族を滅ぼすと戒めた。金軍は昼夜甲を解かず疲弊する中、錡軍は交代で休息し英気を保った。晴天の未申の刻、金軍の力が尽きたところを突いて大破、拒馬木を用いた金の重装「鉄浮図」(三人一組・韋索で連結)や左右両翼の「拐子馬」(女真の「長勝軍」)も破られ、辰から申まで戦って敵は大敗した。城上では鼓を打ち続けながら平時のように食事を摂り、敵を威圧した。この戦で金軍の精鋭は7〜8割を損じ、韓常以下は兀术に鞭打たれた。武泰軍節度使・侍衛馬軍都虞候・知順昌府沿淮制置使を授けられた。この戦いで錡軍は2万に満たず出撃したのは5千のみ、対する金兵は数十万、金は重宝珍器を燕京へ北へ運び、燕以南を捨てる意向まで示したという。この機に諸将が協力して追討すれば汴京を回復できたはずだが、王師は撤退し好機を逃した、と論者は惜しんだ。

柘臯の戦いと不遇

  • 淮北宣撫判官として楊沂中を助け太康県で敵を破ったが、秦檜の意向で師を鎮江に還した。紹興11年(1141年)、兀术が再侵すると廬州で張俊・楊沂中と合流、東関の険を保ち清渓で連勝、柘臯では石梁河に浮橋を架けて渡り、王徳・沂中らと共に金の拐子馬を長斧で撃破した。この功にもかかわらず、楊沂中との確執から柘臯の恩賞は錡軍にだけ及ばなかった。濠州救援では張俊・楊沂中と共に赴くも城は既に陥落、退いて険を保つべきとの錡の進言は聞かれず藕塘の敗北を招いた。錡は自ら歩卒で敵を防ぎ勝利したが、張俊軍の兵が錡軍を夜襲する事件も起き対立が深まった。楊沂中・張俊は「岳飛は援軍に来ず、錡の戦いぶりも力不足」と朝廷に讒言し、秦檜がこれを支持して淮北宣撫判官を罷免、知荆南府に左遷された(岳飛は錡の留任を願ったが許されなかった)。荆南で6年間治め、後に知潭州・太尉を加えられ再び知荆南府となり、堤防修築や田地整備で民を安んじた。

紹興末年、金主亮の南侵と晩年

  • 紹興31年(1161年)金主完顔亮の南侵に対し江淮浙西制置使として揚州に屯し、金の氈で覆った舟を沈めるなど戦果を挙げ、真州・揚州を巡って劉澤・員琦らと共に髙景山を破りその軍功に金5百両銀7万両が賜られた。病により兵権を辞し、甥の劉汜に瓜州の防衛を委ねたが、知樞宻院事葉義問の督戦強行により汜は敗れ、統制官らが戦死。虞允文が采石の戦いで功を挙げ、錡は「朝廷が30年養った兵で一技も施さず、大功が一介の儒生から出た。我らは恥じ入るばかりだ」と允文に語った。乾道元年(1165年、紹興32年の誤りとみられる)閏2月、憤怒のあまり血を数升吐いて卒した。開府儀同三司を贈られ銀3百両帛3百匹を賜り武穆と謚された。慷慨深毅で儒将の風があり、身に50余創を負いながら40年間宿衛に出入りしたと伝わる。金主亮は南侵に際し「敢えて劉錡の名を口にする者は罪を赦さぬ」と厳命したという逸話が残る。