宋史卷三百六十五 列傳第一百二十四 岳飛

相州湯陰の人、字は鵬舉(?–1141年、39歳)。農家に生まれ、南宋建国期の動乱で挙兵し、江西・湖南の平定、襄陽六郡の回復、楊么の乱平定などで功を重ねた。紹興10年には郾城・潁昌・朱僊鎮で金軍を大破し北伐を目前にしたが、秦檜の主導する和議により班師を強いられ、翌年冤罪で獄死した。死後、武穆と謚され鄂王を追封された。

年表(14件)

出自と生い立ち

  • 岳飛、字は鵬舉。相州湯陰の人。代々農業を営む家に生まれた。父の岳和は食を節して飢えた者を救い、耕地を侵された時は割いて与え、負債を取り立てなかった。飛が生まれた時、大鳥が屋上で鳴いたことから名づけられた。生後まもなく河が決壊し、母の姚氏は飛を抱いて甕に乗り波濤を越えて岸に着いたという。少くして気節を負い沈厚寡言、家貧しくも力学し左氏春秋・孫呉兵法を好んだ。生まれつき神力があり、成人前に3百斤の弓、8石の弩を引いた。周同に弓術を学び左右から射ることができ、周同の死後も朔望ごとにその家で祭を行った。父は「時に用いられれば国に殉じ義に死すか」と言ったという。

徽宗・欽宗朝――従軍の始まり

  • 宣和4年(1122年)、真定宣撫の劉韐が敢戦の士を募集した際に応募。相州の賊、陶俊・賈進和を百騎で滅ぼす策を献じ実行、これを捕えた。康王(後の高宗)が相州に至った時、劉浩を通じて謁見し賊の吉倩を招降させ、380人の衆と共に投降させ承信郎に補せられた。李固渡での敵撃破、宗澤の東京解囲戦への従軍、滑南での敵猝襲を独力の奇襲で撃退するなど武功を重ね秉義郎に遷り、留守宗澤に従い開徳・曹州で功を立てた。澤は「爾の勇智才芸は古の良将も及ばぬが、野戦を好み万全の策でない」と陣図を授けたが、飛は「陣を布いてから戦うのは兵法の常だが、運用の妙は一心に存する」と応じ、澤はその言を是とした。
  • 康王即位後、飛は数千言の上書をなし「陛下は既に大宝に即かれ社稷に主があり、勤王の師は日々集まっている。敵は我が虚弱を侮っているので、その怠りに乗じて撃つべきである。黄潜善・汪伯彦らは聖意を体せず車駕を南に移そうとしているが、これでは中原回復の望みを失う。陛下が敵の穴が固まらぬうちに親率六軍で北へ渡れば、将士の士気が上がり中原を回復できよう」と論じたが、越権として官を奪われた。河北招討使の張所を頼り国士として遇され修武郎・中軍統領となる。所の「敵にどれほど当たれるか」との問いに「勇だけを恃みとせず、用兵は先に謀を定めることにある」と応じ、王彦に従い黄河を渡り新鄊で奮戦、翌日の侯兆川の戦いでも十余創を負いながら戦い抜いた。石門山での夜襲の噂にも動じず、太行山で金将の抜跋耶烏を捕え、単騎で黒風大王を刺殺するなど武功を重ねたが、王彦と不和になり宗澤の下に復帰した。

建炎年間――杜充の下での転戦

  • 澤の死後、杜充がその跡を継ぎ、飛は胙城・黒龍潭で大捷、汜水関の戦いでも金将を射殺し大破。竹蘆渡では夜に薪を焚いて援軍来襲と誤認させる策で敵を敗走させた。建炎3年(1129年)、黄善・曹成・孔彦舟らの合流した50万の賊が南薫門に迫った際、わずか8百の兵で撃破した。杜叔五・孫海を東明で捕え、黄善が包囲する陳州で清河の戦いに勝利。杜充が建康に還ろうとした際「中原の地は一尺も棄てるべきではない、今棄てれば数十万の兵がなければ取り戻せない」と諫めたが聞かれず、随行の途上で張用・李成の軍を撃破した。李成が輜重を奪おうとした際も撃退。金軍が建康を攻めた時、充は籠城して出ず、金軍は馬家渡から渡江。充配下は多くが降ったが飛軍だけは秋毫も民を犯さなかった。兀术が杭州を目指すと広徳境で6戦全勝し、王権を捕え、俘虜となった簽軍の首領40余人を教化して帰し、その計略で敵を大敗させた。鐘村に駐屯した際は兵糧なく将士は飢えても民を掠めず、金の徴発兵は「岳爺爺の軍だ」と争って投降した。

建炎4年〜紹興初年――常州・建康の攻防

  • 建炎4年(1130年)、宜興令に招かれ屯を移す。盗賊郭吉を破り、辯士を遣わして敵勢を降した。金軍が再び常州を攻めた際も四戦全勝、清水亭の大捷では屍が15里に及んだ。兀术が建康に迫ると牛頭山に伏兵を設け夜襲で金営を混乱させ、龍灣に至った兀术を新城で大破、建康を回復した。飛は建康を要害の地とし、淮の防衛強化を上奏、帝はこれを嘉納した。戚方討伐、范宗尹の推挙により通泰鎮撫使兼知泰州に任じられたが、辞して淮南東路の重難な任を望んだ。楚州救援に赴くも力及ばず陥落、泰州も守れず柴墟に退いたが南覇橋で金軍を大破し百姓を沙上に渡した。

紹興元〜3年(1131〜1133年)――江西・湖南の平定

  • 紹興元年(1131年)、李成討伐で馬進の軍を洪州西山で撃破、筠州でも大破し8万余人を降した。張用に書を送り旧誼を説いて降伏させた。范汝為の乱では建昌軍・撫州を守り、江淮を平定した功で神武右軍副統制。曹成の10余万の軍を潭州で招撫、成が従わぬと知ると諜者を利用し欺いて奇襲、蓬頭嶺で大破し連州へ追撃した。張憲らに「賊党を殺せば脅従者が哀れ、赦せば再び集まる。首魁のみ誅し衆を撫せよ」と命じ、瘴地での撫循に一人の死者も出さなかった。江州で馬友・郝通・劉忠ら劇賊を平定。
  • 紹興3年(1133年)、䖜吉の盗が広梅英韶等の諸郡を侵した際、彭友を固石洞で捕え、隆祐太后震驚の故を以て屠城の密旨を受けたが、飛は首悪のみを誅し脅従者を赦すよう三四度請い、帝は曲赦を許した。江南西路沿江制置使、後に神武後軍都統制。帝は「精忠岳飛」の四字を書いた旗を賜った。

紹興4〜5年(1134〜1135年)――襄陽六郡の回復と楊么の平定

  • 荆南鄂岳州制置使として、襄陽等六郡を先取して中原恢復の基本とする策を献じ、趙鼎もこれを支持した。郢州城下では敵将京超を城攻めで自殺に追い込み、随州も回復。襄陽では李成の騎兵を歩卒で破る戦術(王貴に長槍歩卒で騎兵を、牛臯に騎兵で歩卒を撃たせる)を用いて大勝した。営田策を上奏し、鄧州では劉合孛堇の軍を破り高仲を捕え鄧城を回復、唐州・信陽軍も復し襄漢が平定された。趙鼎の建議により鄂岳に駐屯、清遠軍節度使・湖北路荆襄潭州制置使に任じられた。廬州救援でも金軍を一戦で潰走させた。
  • 紹興5年(1135年)、荆湖南北襄陽路制置使・神武後軍都統制として楊么討伐を命じられた。水戦に不慣れな西北出身の兵を率いつつ、黄佐を降し楊欽を招降するなど諜略を駆使、火攻めと巨筏で楊么の水軍を封じ込め、わずか8日で平定した(張浚も「岳侯神算なり」と嘆じた)。この功で蘄黄制置使を兼ね、検校少保に加えられ公に封ぜられた。

紹興6〜9年(1136〜1139年)――北伐の志と偽齊討伐

  • 紹興6年(1136年)、太行山の忠義社梁興らが帰順。武勝定国軍節度使・宣撫副使として襄陽に置司。母の喪に服したが起復の制により復帰。宣府河東節制も兼ね、王貴らに虢州を攻めさせ糧15万石を得た。劉豫が麟・猊を淮西に侵攻させた際、劉光世・張俊が退却を望んだのに対し岳飛は東下を命じられたが、劉麟の敗北で兵を戻した。唐州の偽齊軍を攻略し中原恢復を上奏したが許されなかった。
  • 紹興7年(1137年)帝と対話し「良馬は精潔なもの以外食さず、力を余して求逞せぬ。今の馬は粗食で逞しく速いが力尽きやすい」との比喩を語り帝に称賛された。太尉を拝し宣撫使兼営田大使に進んだ。淮西軍の統帥をめぐり張浚と議論し、王徳・酈瓊の処遇について正論を述べたが張浚の不興を買い、兵柄を辞して母の墓側に服喪を続けようとした。帝の再三の詔でようやく復帰。酈瓊の叛乱後、帝は淮甸進屯を許さず駐師江州とした。金の間者を欺いて偽の蠟書を作らせ劉豫廃立を誘導する謀略も行った。
  • 紹興9年(1139年)、河南地の返還に伴う大赦で和議への不満を上表、開府儀同三司を三度辞退したが帝の温言により受けた。金人が墓所参拝を許した際も「実は釁を伺うため」と警戒を進言した。

紹興10年(1140年)――郾城・潁昌・朱僊鎮の大捷

  • 金人が拱・亳を攻めると劉錡救援に将を派遣。少保・河南府路陕西河東北路招討使に進んだ。梁興を渡河させ忠義社と連携させ、諸将が各地を経略。飛自身は軽騎で郾城に駐屯、兀术は「諸帥は与しやすいが飛だけは当たれない」と警戒し全軍で決戦を挑んだ。子の岳雲に騎兵を率いさせ「勝たねば汝を斬る」と命じ数十合の激戦、金軍の重装拐子馬(三騎連結の鉄騎)に対し歩卒に麻札刀を持たせ馬の脚だけを狙わせる戦術で大敗させた。兀术は「海上より起兵して以来、この装備で常勝してきたが今は終わった」と慟哭したという。
  • 潁昌でも王貴・岳雲が奮戦し兀术の女婿である夏金吾を含む金将を討ち取り、梁興ら太行の忠義軍と連携し中原全域が呼応した。朱僊鎮では汴京まで45里に迫り兀术と対陣、これを大破し兀术は汴京へ敗走。両河の豪傑・忠義軍が続々と帰順し、金の統制王鎮ら多くが密かに岳家軍の旗牓を受けた。金将軍韓常も5万の衆を率い内応を約した。飛は「まっすぐ黄龍府まで進み諸君と痛飲しよう」と語ったが、秦檜は淮北以北を捨てる方針で班師を働きかけ、飛の意志が固いのを見て張俊・楊沂中を先に帰還させたうえで、一日に十二の金字牌を発して撤兵を強要した。飛は「十年の力が一朝にして廃れた」と東に向かい涙して拝した。撤退時、民は馬を遮り慟哭し「金人はわれらが香盆を戴き糧草を運んで官軍を迎えたことを知っている。相公が去ればわれらは皆殺しにされる」と訴え、飛も悲泣して詔を示した。書生が兀术に「大将が城外で功を立てられた例はない、岳少保は必ず除かれる」と予言し、兀术はこれを聞いて汴京に留まった。

紹興11年(1141年)――淮西防衛と兵権の解除

  • 諜報で金軍の淮への侵攻を知り合軍撃破を請うたが、寒疾を押して蘄黄への出兵を願った。帝は「卿の忠を忘れる者はいない」と称えたが、和議が進む中、秦檜は世忠・張俊が朝廷に到着した後も岳飛を遅らせ、樞宻副使・参知政事格の地位を授けて兵柄を解いた。5月、張俊と共に楚州で辺防を措置、韓世忠の軍を還り駐鎮江とすることになった。世忠・俊とはかねて不和があったが飛は自ら下手に出て融和を図った。淮西の役で張俊が糧乏を理由に飛を止めたが飛は聞かず進軍、帝の褒諭の書状が俊の疑念を招くなど確執が続いた。張俊が世忠の背嵬軍を分割しようとした際も飛は義として拒否、世忠軍吏の景著と胡紡のやり取りをめぐる混乱でも飛は世忠に密告し窮地を救ったが、これが張俊の大きな恨みを買った。

紹興11年(1141年)――冤獄と死

  • 秦檜はかねて岳飛が和議に与せず恢復を志すことを憎み、徳無常師の語を読んだ際に「君臣の大倫は天性に根ざす、大臣として面と向かって主を欺いてよいものか」と怒った。兀术は檜に「汝が朝夕和を請うても岳飛が河北を図る限り、必ず飛を殺してはじめて和が成る」と書き送り、檜も飛の存在が和議の妨げになると考え謀殺を図った。諫議大夫万俟卨に飛を弾劾させ、中丞何鑄・侍御史羅汝楫にも交章弾論させた。張俊にも王貴を脅させ、王俊に張憲を誣告させ、岳飛父子と張憲の証言を求める使者を差し向けたが、飛は「皇天后土、この心を表す」と笑って応じた。何鑄が取り調べた際、飛は背に「尽忠報国」の四字が深く刻まれているのを示し、鑄は無実を認めたが、万俟卨に交代させられた。卨は岳雲・張憲の書状を捏造し、証拠なきまま衆証で獄を成した。歳暮に秦檜が手ずから小紙に書いて獄に付し、その日のうちに飛は死を報じられた。時に39歳。岳雲も棄市され、家財は籍没、家族は嶺南に徙され、幕属の于鵬ら連座した者6人。
  • 獄中、大理寺丞の李若樸・何産猷、大理卿の薛仁輔が飛の無罪を主張して罷免され、宗正卿の士㒟が百口をもって保証したがこれも劾された。布衣の劉允升は上書して冤を訴え棘寺(大理寺)で死んだ。獄が成った関係者は皆昇進した。韓世忠は檜に事実を問い詰め、檜は「岳雲と張憲の書状は明らかでないが、事体はおそらく(莫湏有)」と答え、世忠は「莫湏有の三字でどうして天下を服せられようか」と反論した。金国にいた洪皓が密奏したところによれば、金人が畏服したのは飛のみで「父」と呼ぶ酋長もいたといい、飛の死を聞いた諸酋は酒を酌み交わして祝ったという。

人物

  • 飛は至孝で、母を河北から迎え取り、痼疾には自ら薬餌を用意し、母の死の際は三日間水も飲まなかった。姫妾を置かず、呉玠が名妓を贈った時も「主上が心を砕いておられる時に大将が安楽を求めてよいか」と断った。少壮より豪飲だったが帝の戒めで断酒した。帝が第を営もうとした時「敵未だ滅びず、家など無用」と辞退。「文臣が銭を惜しまず、武臣が死を惜しまなければ天下は平らかになる」と語った。訓練では重鎧を着けたまま坂を登り壕を跳ぶ訓練を課し、子の岳雲が馬を躓かせた際も怒って鞭打った。麻一縷を民から取った兵を即斬に処し、軍規は「凍死不拆屋、餓死不鹵掠」と称された。負傷兵には自ら薬を調じ、遠戍する将の妻を見舞い、戦死者の子を我が子として養い、あるいはその娘を我が子の嫁とした。頒賜は軍吏に均分し私せず、少数で多数を撃つ戦術を得意とし、統制と謀議して勝算を定めてから戦い、「山を撼かすのは易く岳家軍を撼かすのは難い」と評された。用兵の術を問われ「仁智信勇厳、一つも欠けてはならぬ」と答えた。屯田を興し漕運の負担を半減させ、帝が曹操・諸葛亮・羊祐の事跡を書いて賜った際は、曹操だけを姦賊として鄙しめ、これが秦檜に最も憎まれた。旧恩ある張所の子・宗夲を養育し官に推挙、李寳の帰順を韓世忠と分け合わず「均しく国家のためだ、彼我を分けるものか」と語り世忠を感服させた。功を辞して「将士が力を尽くしたのみ、飛に何の功があろう」と繰り返した。経史を読み、雅やかに歌い投壺を楽しみ書生のようであったが、忠憤激烈で議論は正論を持し、それゆえに禍を招いた。

名誉回復

  • 秦檜の死後、岳飛の官職回復が議されたが万俟卨が「金がまさに和を願う時に故将を録すれば人心を疑わせる」と反対し実現しなかった。紹興末、金がますます猖獗を極める中、太学生の程宏図が上書して冤を訴え、飛の家族の自由な生活が許された。かつて檜は岳州が飛と同姓であることを憎み純州と改称させていたが、これも旧に復した。中丞汪澈が荆襄を宣撫した際、旧部曲が声を揃えて訴え、哭声は雷のようであったという。孝宗の詔により官職を復し、礼を以て改葬、銭百万を賜り子孫はことごとく官に取り立てられた。鄂に廟を建て忠烈と号し、淳熙6年(1179年)武穆と謚され、嘉定4年(1211年)鄂王を追封された。

岳雲――養子としての功

  • 岳雲は飛の養子。12歳から張憲に従軍し戦功多くを立てたが飛はこれを隠した。両手に80斤の鉄椎を握り常に諸軍に先んじて登城、随州・鄧州攻略でも功があり、襄陽平定の功は第一であったが飛は公言せず、翌年ようやく銓曹が調べて武翼郎に遷った。楊么平定の功も第一であったが上申せず、張浚に「岳侯は寵栄を避けている、廉といえるが公平とはいえない」と評された。特旨で三資を進めようとしたが「士卒が矢石を冒し功を立ててようやく一級昇るのに、子の雲だけ躍進しては衆を服させられない」と辞退した。潁昌の大戦では十数度出入りし体に百余創を負い、忠州防禦使・帯御器械を辞退した。左武大夫・提挙醴泉観のまま23歳で死んだ。孝宗の代に飛と共に元官を復され、礼を以て祔葬され安遠軍承宣使を贈られた。

岳雷・岳霖・岳震・岳霆――子孫のその後

  • 岳雷は忠訓郎閤門祗候を贈られ、岳霖は朝散大夫敷文閣侍制、贈大中大夫。飛が下獄した際、秦檜の党の王会が家を捜索し御札数箧を得て左蔵南庫に収めていたが、岳霖が孝宗に願いこれを取り戻した。霖の子の岳珂は淮西の十五の御札を辨験・彙次し、出師応援の先後を考証、嘉定年間に『籲天辨誣集』5巻・『天定録』2巻を編んで上奏、朝奉大夫提挙江南東路茶塩公事となった。岳震は修武郎閤門祗候。

史論

  • 西漢以降、韓信・彭越・絳侯周勃・灌嬰のような将は代々乏しくないが、文武全器・仁智並び施す点で宋の岳飛のような人物は一代に多く見られない。史書は関羽が春秋左氏学に通じたと称えるが、その文章は伝わらない。岳飛が北伐軍を朱僊鎮まで進めた際、班師の詔に対し自ら表を作って答え、忠義の言は肺腑から流れ出て、まことに諸葛孔明の風があった。しかし遂に秦檜の手に死んだ。飛と檜は勢い両立できず、飛が志を得れば金への讐は復せられ宋の恥は雪がれたはずだが、檜が志を得れば飛はただ死あるのみであった。昔、劉宋が檀道済を殺し、道済は獄で目を怒らせて「自ら万里の長城を壊すか」と言ったという。高宗は忍びて自ら中原を棄て、忍びて飛を殺した。ああ、冤なるかな。ああ、冤なるかな。