宋史卷三百六十四 列傳第一百二十三 韓世忠

延安の人、字は良臣(?–1151年)。西夏・方臘討伐で武名を上げ、南渡後は苗傅・劉正彦の乱鎮圧、黄天蕩の戦いなどで金軍を苦しめ「中興の名将」の一人となった。和議に反対して秦檜と対立し、晩年は兵権を返上して隠棲した。子の彦直も文武に功を立てた。諡は忠武、追封は蘄王。

年表(15件)

出自と生い立ち

  • 韓世忠、字は良臣。延安の人。骨格が偉丈夫で、目を瞬く様は電光のようであった。若くして猛勇で人に優れ、生馬を乗りこなすことができた。家は貧しく無産で、酒を嗜み気性が荒く抑えが利かなかった。日者(占い師)が「三公になる相だ」と言ったのを侮辱と受け取り殴りつけたという。18歳で敢勇の士として応募し鄊州に入籍、強弓を引き馬を馳せて射ることに軍中随一であった。

徽宗朝――西夏・方臘討伐

  • 崇寧4年(1105年)、西夏が銀州に侵攻すると、世忠は関を斬り敵将を討ち首を陴(城壁)外に投げ捨てて全軍を鼓舞し夏軍を大敗させた。蒿平嶺の戦いでも精鋭を率いて奮戦し、監軍の駙馬・兀チン(女真の将)を単騎で斬った。しかし経略司が功を上申する際に増飾を疑われ、わずかな加増にとどまった。劉延慶に従い天降山砦を攻め、夜に登城して2級を斬り護城氈を奪って献じた。仏口砦でも数級を斬り進義副尉に補せられ、蔵底河でも3級を斬って進勇副尉に転じた。
  • 宣和2年(1120年)、方臘が反乱を起こし江浙が震動した。世忠は偏将として王淵に従い杭州で方臘軍を撃破。淵は「真に万人敵である」と称え、随身の白金器をすべて彼に与え交わりを結んだ。方臘の首を得た者には両鎮の節鉞を授ける詔が出ており、世忠は睦州清溪峒の険阻な洞窟に至って野の婦人から道を聞き出し、単身で険を渡り数十人を斬って方臘を捕えたが、辛興宗が峒口を塞ぎ捕虜を横取りしたため功は世忠に及ばなかった。別将の楊惟忠が朝廷にその実を訴え、承節郎に転じた。
  • 宣和3年(1121年)、燕山回復の議が起こり諸軍が出兵したがみな潰えた。世忠は劉延慶を訪ね、蘇格ら50騎とともに滹沱河で金兵2千余騎に遭遇。格が動揺する中、世忠は落ち着いて高岡に列させ、燕山からの潰兵の船が集まると河岸に船を寄せて鼓譟し声勢を助け、自らは敵陣に躍り込んで旗手を斬るなど奮戦し金兵を大敗させた。
  • 山東河北の盗賊が蜂起した際は王淵・梁方平に従いこれをほぼ討ち尽くし、功により武節郎に転じた。欽宗即位後、梁方平に従い濬州に屯したが、金軍の圧迫に方平の備えが緩く敗走、世忠は重囲を突破し橋を焼いて帰還した。欽宗はこれを召見し武節大夫に転じさせた。勤王の詔に応じ河北総管司の選鋒軍統制となる。時の勝捷軍の張師正が乱を起こし宣撫副使の李彌大を殺害、大校の李復も衆を扇動し淄青の徒数万を集めた際、世忠はわずか千に満たぬ兵で臨淄河に至り、四隊に分け鉄蒺藜で退路を塞ぎ「進めば勝ち、退けば死」と命じて大破し、追撃して宿遷に至り賊の残党を降した。

建炎年間――勤王と各地の平定

  • 康王(後の高宗)が済州にあった時、世忠は麾下わずか千で敵の大軍を破りその酋長を斬った。康王即位後、光州観察使・帯御器械に任じられた。建炎年間、劉光世に従い陳州・黎驛の叛兵、京東の賊を討ち、単州の賊魚臺を破った。建炎2年(1128年)、定国軍承宣使に昇進。張遇の軍を降し、李民の反覆の企みを見抜いてその党29人を斬った。金軍が河南を攻めた際、翟進と共に悟室の営を夜襲したが失敗し、丁進の失期・陳思恭の先遁により苦戦、矢を全身に受けながらも力戦して脱した。
  • 建炎3年(1129年)、帝が諸将に移蹕の地を議した際、張俊・辛企宗は湖南行きを勧めたが、世忠は「淮浙は富饒であり根本の地、これを捨てれば人心が揺らぐ」と諫めた。苗傅・劉正彦の反乱に際しては、張浚らと共に討伐を主導し、妻の梁氏(安国夫人)が単身城を脱して報せをもたらすなど活躍。臨平で苗翊・馬柔吉の軍を撃破し反乱を鎮圧、賊将吳湛を捕えて指を折り市に晒し、また賊の首魁・苗傅・劉正彦を追撃し漁梁驛で捕えた。帝は「忠勇」の二字を書いた旗を賜り、検校少保・武寧昭慶軍節度使に任じた。

建炎4年(1130年)――黄天蕩の戦い

  • 兀术が長江を渡り南下すると、諸屯が敗れる中、世忠は前軍を青龍鎮、中軍を江灣、後軍を海口に配し、金軍の帰路を邀撃する策を献じた。上元節に秀州で張灯の宴を張っていたが急ぎ鎮江へ引き返し、金軍に先んじて焦山寺に屯した。兀术との決戦の約束を受け、梁夫人が自ら桴鼓を執って指揮し金軍の渡江を阻んだ。世忠は海艦を金山下に進め、大鈎を仕込んだ鉄綆で敵舟を沈める策を用い、兀术を追い詰めた。兀术は和議を求めたが、世忠は「両宮(徽宗・欽宗)を返し、疆土を回復せよ」と要求し拒絶。
  • 黄天蕩に金兵を44日間閉じ込めたが、閩人が献策した破海舟の策(船底に土を敷き浅瀬で漕ぐ)や、金軍が方士の計を用いて祭天し風を止め、風のない海で我が軍の帆が使えなくなったこと、また大渠を掘って上流に迂回したことにより、金人は江を渡って逃げ延びた。世忠は8千余人でこの兀术10万の軍と渡り合った功により、帝から6度の褒詔を受け、検校少保武成感徳軍節度使・神武左軍都統制に拝された。

紹興年間――閩・湖南の平定

  • 建安の范汝為が反乱を起こすと福建江西荆湖宣撫副使に任じられ、劍潭で賊の妨害を突破し鳳凰山を急襲、5日で城を落とし范汝為は自焚した。建民(建州の民)を誅殺しようとしたが、李綱の諫めにより従賊者のみを誅し民心を得た。
  • その後、広西の賊曹成が郴・邵に拠っていたが、豫章に急進して降伏させ戦士8万を得た。長沙で劉忠の数万の軍と対峙した際は、宣撫使孟庾の慎重論を退け、夜に賊の軍号を聞き出し2千の精兵を伏せて夜襲、劉忠を斬り湖南を平定。太尉を授けられ、笏を賜り、樞宻に頒示された。江南東西路宣撫使に任じられ、開府儀同三司・淮南東西路宣撫使に進む。

紹興4〜9年(1134〜1139年)――淮東の防衛

  • 建康・鎮江・江東宣撫使として李横の偽齊討伐を支援。紹興6年(1136年)、大儀鎮の戦いでは金の使者魏良臣の偵察を欺き、五陣を伏せて大破、撻孛也ら200余人を捕えた。この功は「中興武功第一」と評された。
  • 紹興7年(1137年)、京東淮東路宣撫処置使として楚州に置司、荒地を開き軍府を立て、兵と共に労役に従事した。劉豫の兵をたびたび撃退し、揚武翊運功臣の号を賜り横海武寧安化三鎮節度使を加えられた。淮陽をめぐる攻防でも兀术・劉猊の軍を退けた。
  • 紹興9年(1139年)、金人が詭計で緩兵を図ることを警戒し、王倫・藍公佐の河南地界の文書に不備があると指摘するなど和議に反対し続けた。金の使者蕭哲之来朝の際も再三上奏して開戦を主張したが聞き入れられず、伏兵で金使を殺そうとしたが果たせなかった。少師を授けられた。
  • 紹興10年(1140年)、兀术が盟約を破ると淮陽を包囲し金軍を撃退。太保・英国公・河北諸路招討使に進んだ。

紹興11年(1141年)――柘臯・濠州の戦いと引退

  • 兀术の再侵に対し柘臯で金軍を破り、濠州救援に赴いたが五日で陥落。淮岸での戦いでは劉寳を遣わして敵の帰路を断とうとしたが、敵に察知され、全軍を無事に帰した。楚州に十余年在り、兵わずか3万で金人を寄せ付けなかった。
  • 秦檜が三大将の兵権を収めると、樞宻使を拝し、蓄えた軍儲・銭・米・酒庫をすべて国に返上した。世忠は和議に反対し続け、檜に抑えられた。紹興11年(1141年)10月、樞宻使を辞し醴泉観使となり福国公に進封、以後門を閉ざし客を謝絶し兵を語らなくなった。驢に乗り酒を携えて西湖に遊び自ら楽しんだ。紹興12年(1142年)潭国公に改封。紹興13年(1143年)咸安郡王に封ぜられ、紹興17年(1147年)鎮南武安寧国節度使に改まる。紹興21年(1151年)8月薨去、太師を追贈され通義郡王を追封された。孝宗朝で蘄王を追封され、謚は忠武、高宗廟庭に配饗された。

人物

  • 世忠は疾を得た際、将吏が病床を見舞うと「布衣より百戦して王公に至った。天の霊により天寿を全うできれば十分」と語った。死に際し朝服・貂蟬冠・水銀・龍脳で殮された。家人に「わしの名は世忠、汝らは忠の字を諱まず言え」と戒めていた。性は戇直・勇敢・忠義で、廟社に関わることには涙を流して直言した。岳飛の冤獄について朝廷の誰も一言も発しない中、世忠だけが秦檜の怒りを買うのも構わず抗議した。和議に反対して檜と対立し、「今は禍を畏れて茍も同調しても、後日太祖殿下の前で鉄杖を受けるわけにいかぬ」と語った。
  • 義を重んじ財を軽んじ、賜与はすべて将士に分け与え、自らの田租も編戸と同じに納めた。軍を厳格に統率し士卒と甘苦を共にした。器仗の規画に優れ、克敵弓・連鎖甲・狻猊鍪などは彼の遺法である。かつて毒矢が骨に入った際、彊弩で肉を割いて取り出させ、十指のうち四本しか動かせなくなった。成閔・觧元・王勝・王権・劉寳・岳超ら多くの将を伍卒から抜擢した。兵を解いて政を退いた後は10年間家に籠り、権位にあったことを忘れたかのようであった。晩年は釈老を好み、自ら清涼居士と号した。子は彦直・彦質・彦古、いずれも才を見込まれて用いられた。彦古は戸部尚書に至った。

韓彦直――出自と初任

  • 彦直、字は子温。世忠の長子で、幼くして父の任により右承奉郎に補され、祕閣に直った。6歳の時、父に従い高宗に見え、大字を書くよう命じられ「皇帝万歳」の四字を跪いて書いた。帝は喜び「他日、器となる人物だ」とその背を撫でた。孝宗が幼少の頃、髪を結う際に自ら世話をし、金器・筆研・鞍馬を賜った。12歳で三品服を賜る。紹興17年(1147年)両浙転運司の試に及第、翌年進士第に登り、太社令に任じられた。

韓彦直――秦檜の抑圧と復帰

  • 紹興21年(1151年)世忠が薨じ服喪が明けると、秦檜は世忠が和議に付かなかったことを恨み彦直を浙東安撫司主管機宜文字に出した。檜死後、光禄寺丞を拝命。紹興29年(1159年)屯田員外郎に遷り工部侍郎・張浚の江淮都督府で軍事に参与した。督府が罷されると祠を奉じた。乾道2年(1166年)戸部郎官に遷り左曹総領淮東軍馬銭糧を主管、軍倉の給糧不正を摘発し不正吏を処罰。乏興の弊を正して緡銭を四倍に増やし司農少卿・直龍圖閣に進み、江西転運兼権知江州となった。岳飛家の資産を捜索・隠匿分を岳氏に返還し、再び司農少卿・総領湖北京西軍馬銭糧・発運副使を兼ねた。時の宰相に疎まれ武職に転じ利州観察使・知襄陽府・京西南路安撫使となる。

韓彦直――鄂州軍政と朝廷での活躍

  • 乾道7年(1171年)鄂州駐劄御前諸軍都統制となり、器械の整備・戦馬の増加・濫賞の是正・功臣の顕彰・親随の選抜など軍中の六事を上奏、朝廷はおおむね採用した。それまで軍中の騎兵が歩戦に不慣れであったため、騎士に甲を着けたまま徒歩で一日60里を歩かせる訓練を課し、統制官にも自ら率先させた。この方法は三衙・江上諸軍にも倣われた。
  • 乾道8年(1172年)文班への帰任を願い出て左中奉大夫・敷文閣待制・知台州となる。岳飛が鄂渚に居して荆襄を遥領していた旧制に戻すべきと進言し、京西湖北の転運を一司に合わせ襄陽に司を分置することを願い、帝はこれを善しとした。刑部侍郎、のち工部侍郎を兼ねる。大辟(死罪)の裁定に衆証で決めるべきとする議論に対し、彦直は「そうすれば善良な者が誣告される冤獄が多発する。笞杖の刑ですら自白なしに決するのは重すぎる」と反対し議は退けられた。金への使者の役目を誰も望まぬ中、帝に自ら選ばれて赴任し、金使の蒲察との交渉で理を尽くして屈させ、無事帰還した。帝はこれを嘉して吏部侍郎に遷り、権工部尚書、復中大夫、工部尚書兼知臨安府を歴任した後、辞任し提舉太平興国宮となった。
  • 知湖州として巨猾王永年を捕え杖刑に処し、民の逋負を郡の余財で代納した。内帑の坊場銭未納の責を負い一官を降されたが、海寇の平定に功があり敷文閣学士に進んだ。弟の彦質を両浙転運判官としたが引嫌して自ら泉府に転じ、祠を奉じ特に佩魚を許された。靖康以来の殉節の士を訪ね忠義を勧奨するよう進言し、また州郡守臣の財賦を実査する制度改革を提案、帝はいずれも嘉納した。淳熙10年(1183年)夏の旱に応じ濫刑を戒め、三衙を宸居の近くに置くべきと論じた。再び戸部尚書となり歳旱に備えて広く糴穀することを願い、岳飛を誣陥した者たちの追貶を求め、その言により敷文閣学士に降された。帝は世忠の元勲を追感し彦直を諭し、彦直は感泣して謝した。
  • 万夀観の提挙となり疾を得るが、帝から薬を賜り顕謨閣学士・提挙万夀観に進む。かつて宋朝の事跡を分類した『水心鏡』167巻を編み、礼部尚書尤袤が国史編纂に際しこれを進めたところ光宗はこれを称賛し、龍圖閣学士・提挙万夀観に進んだ。光禄大夫に転じ致仕、卒すると特に開府儀同三司を贈られ銀絹900匹を賜り、蘄春郡公を追爵された。

史論

  • 古人は「天下安ければ相に注意し、天下危うければ将に注意す」と言った。宋の靖康・建炎の際は天下安危の岐路であり、勇略忠義の韓世忠が将となったのは、天が宋の興復を助けるためであった。兀术が渡江した際、世忠だけがこれと対峙し余裕を示した。劉豫が廃されて中原の人心が動揺した時も、世忠は好機に乗じ進兵すべきと請うた。この好機をなぜ逃したのか。高宗は姦臣・秦檜の言のみを聞き、世忠にその才を尽くさせなかった。和議が成って宋の大事は去った。晩年は行都に退居し、口を閉ざして兵を語らず、部曲の旧将とも会わなかった。これは岳飛の一件を懲りたためであろう。昔、漢の文帝は前代の廉頗・李牧を思ったというが、宋は世忠を得ながら善く用いなかった。惜しいことである。