宋史卷三百六十六 列傳第一百二十五 吳玠

徳順軍隴干の人、字は晉卿(?–1139年、47歳)。西夏との戦いや靖康以来の戦功で頭角を現し、富平の敗戦後は和尚原・仙人関を死守して金軍の四川侵入を阻んだ。弟の璘と共に十年にわたり陝蜀の防衛を担い、屯田・水利にも功があった。諡は武安。

年表(6件)

出自と初任

  • 吳玠、字は晉卿。徳順軍隴干の人。少くして沈毅で志節があり、涇原軍に隷す。政和年間、夏人の侵攻を退けた功で進義副尉に補せられ、方臘討伐・河北群盗討伐でも功を重ね涇原第十将となった。靖康初年、懐徳軍を攻めた夏軍を百余騎で追撃し斬首140級。建炎2年(1128年)、金人が大慶関から秦雍を侵した際、青溪嶺で前鋒として大破、追撃30里で金人を畏れさせ、涇原路兵馬都監兼知懐徳軍となる。曲端に従い蒲城・華州を攻略、劇賊史斌討伐でも斬功があり忠州刺史に遷った。張浚に才幹を認められ統制に任じられ、弟の吳璘も帳前親兵を掌った。

富平の敗戦と和尚原の防衛(紹興元〜2年/1131〜1132年)

  • 建炎4年(1130年)、金の婁宿・撒離喝の大軍に対し彭原店で撃退、しかし富平の戦いでは五路の兵が地の利を失い大潰、玠は散卒を収めて和尚原(散関の東)を保ち死守の構えを取った。鳳翔の民は感謝して夜密かに芻粟を輸送、玠は銀帛で償ったが、これに怒った金人は民を伏兵で殺し保伍連坐で禁じた。紹興元年(1131年)、金将没立・烏魯折合の合流を阻止し撃退、璘と共に散卒数千で原上に留まり将士に忠義を誓わせた。玠は明州観察使を承制され、居喪から起復して陝西諸路都統制を兼ねた。
  • 兀术が10余万の大軍で浮梁を架け和尚原を攻めた際、駐隊矢の連射で敵を退け、糧道を断ち神坌に伏兵を設けて大敗させ、兀术は流矢で辛くも逃れた。鎮西軍節度使に進み、璘は涇原路馬歩軍副総管となった。

饒風関・仙人関の戦い(紹興3〜4年/1133〜1134年)

  • 紹興3年(1133年)、撒離喝が商於から金州を奪い洋漢に迫った際、田晟に饒風関を守らせつつ玠自身は河池から3百里を昼夜駆け黄柑を敵に贈り「大軍が遠来し渇を止めるまで」と余裕を示した。撒離喝は「なぜこれほど速く来たのか」と驚いたという。饒風嶺の激戦は6昼夜に及び、募兵5千を得て挟撃を図ったが、小校の裏切りで祖溪の間道を突かれ潰走、興元が陥落した。玠は三泉で武休関の敵を伏撃し金軍に大損害を与え、進玠検校少保・利州路階成鳳州制置使となった。
  • 紹興4年(1134年)、璘に和尚原を放棄させ仙人関右に新たな塁を築かせていたところに、兀术・撒離喝・劉夔が10万騎で来襲。璘は7昼夜の転戦の末に玠と合流、金軍二方面攻撃を退け、璘が地を画して「死せば此処に死す、退く者は斬る」と将士を励まし、駐隊矢の連射で敵を大敗させた(韓常は左目を射られた)。この仙人関の勝利で玠は川陝宣撫副使、璘は保平静難節度使などに進んだ。以後10年に及ぶ対峙で屯田を興し歳収10万斛を上げ、褒城の廃堰を復して灌漑を回復し数万家が帰業した。

晩年と評価

  • 紹興9年(1139年)、和議成立で特進開府儀同三司・四川宣撫使に進むが、既に病篤く同年、仙人関で47歳で卒した。少師を贈られ銭30万を賜った。史書を好み座右に格言を書き、孫呉の兵法を本としつつ遠略を求めず小利を追わなかった。用兵の秘訣を問われた璘は「金人の弓矢は中国に劣るが、中国の兵は金人の堅忍に劣る。長技(弓弩)で数百歩外から重甲を貫き、形勢有利な地で鋭卒を交代させ休ませずに撓ませる」と語った。子は拱・扶・撝・擴・揔の5人、拱も兵を握った。武安と謚され、廟を仙人関に建て思烈と号した。淳熙年間、涪王を追封された。