出自と辺防策
- 張慤、字は誠伯、河間樂夀の人。元祐六年の進士に登第、龍図閣学士・計度都転運使を歴任。高宗が兵馬大元帥として諸道の兵を募る際、慤は輓輸に努め、元帥府の印で塩鈔を発行して商旅の便を図る建策を行い、旬を経ずに緡銭五十万を得て軍を助けた。高宗はこれを重んじ、便宜をもって権大名尹兼北京留守馬歩軍都総管に任じた。
- 二帝の北行を聞くと、副総管の顔岐らとともに三度勧進の牋を上奏、特に最後の上書では「中原は一日も君主を欠くべきでない」と論じ、高宗を感悟させた。
- 建炎改元後、戸部尚書、同知樞密院事兼御営副使として戸部財用を措置。三河の民が金への深い怨みを持つ現状を踏まえ、唐の澤潞歩兵・雄辺子弟の遺意にならい民を什伍に編成し農と兵を兼ねさせる「巡社」の制度を建議、朝廷はこれを集めて書とし施行させた。
- 尚書左丞に遷り官は中書侍郎に至る。慤は財政に長け銭穀の利害を掌に指すように論じ、朝廷では諤諤として大臣の節を保ちながらも、可否の議論で同僚の歓を失うことがなかった。卒去に際し諡は忠穆。上は常に「慤は国のため忠を尽くし、事に臨んで敢諫した古の遺直である」と評した。