出自と河北招撫
- 張所、青州の人。進士に及第し監察御史を歴任。高宗即位後、陵寝を按視する使いに遣わされ、還って河東河北こそ天下の根本であること、かつて姦臣の謀により三鎮・両河を割いたため民の怨みが骨髄に達していると上疏、これを用いて守りとすべきと論じた。また還京には五つの利があり、国の安危は兵の強弱と将相の賢不肖にあり都の遷不遷にはないと論じ、両河の利害も条上した。
- 所は黄潜善の姦邪を批判したため新政を害するとして罷され、御史から兵部郎中に改められ、さらに鳳州団練副使江州安置に責められた。李綱が相となり所を両河経略に薦めようとしたが、潜善を批判した経緯があるため難色を示した。ある日、綱は潜善に「今、河北にはただ一人張所だけが用いられる、狂言により罪を得たが今は抆拭して用い招撫を任せ、死を冒して功を立てさせ罪を贖わせるのがよいのでは」と説き、潜善もこれを許諾した。
- 所は直龍図閣河北招撫使を借銜され、内府銭百万緡と空名告身千余道を賜り、京西の卒三千を衛とし将佐官属の自辟・便宜従事を許された。入見して利害を条陳、五品服を賜り出発した。直祕閣の王圭が宣撫司参謀官として佐した。
- 河北転運副使の張益謙は黄潜善の意に阿り、所が北京に司を置くことを非とし、招撫を廃して帥司に任せるべきと上奏。李綱は「所は今なお京師で将佐を招集中で未だ行動していない、益謙が何を根拠に朝廷を惑わすことを言うのか、河北の盗賊が民の帰る所なきゆえに起こったから招撫司を置いたのであり、司を置いたから盗賊が生じたわけではない、京東西の群盗の横行も招撫司の過ちではない」と反論。上は益謙の分折を命じたが、樞密院の汪伯彦は益謙の奏をなお用いて招撫司を詰責し、綱と伯彦は上前で争論、伯彦は言葉に窮した。
- 所は豪傑を招き王彦を都統制、岳飛を凖備将としたが、綱が罷相すると王圭が代わり、所は落職・嶺南安置となり貶所で卒去。子の宗本は岳飛の奏により補官された。