宋史卷三百六十三 列傳第一百二十二 許景衡

温州瑞安の人、字は少伊(?–1129年、享年57)。元祐九年の進士。程頤の学を継ぎ、王黼・童貫らの専横を弾劾し、建康への遷都を主張したが容れられず、左遷の途上で病を得て没した。諡は忠簡。

年表(2件)

出自と直言

  • 許景衡、字は少伊、温州瑞安の人。元祐九年の進士に登第。宣和六年、監察御史に召され殿中侍御史に遷った。王黼・蔡攸が権を用いる中、景衡は尚書省の長官欠員と同知樞密院の久しい空位を指摘し、三公が三省を通治するとはいえ文昌(尚書省)と樞密院はそれぞれの職分があるとし、忠賢の遴選による補充を求め、王黼の意に大いに逆らった。
  • 童貫が河東北宣撫使として北伐しようとした際、景衡はその貪繆を数十条にわたり論じたが受理されなかった。江浙で郡県が疲弊する中、茶塩の比較法(徴税基準)が旧来のまま維持されていることを批判、戸版が半減した現状に照らして比較を減免すべきと訴え、両浙江東路の茶塩比較の一時停止が認められた。
  • 燕雲の役の続く中、財力の窮乏と民力の困弊を論じ、営繕・花石綱運などの不急の務め、冗員・冗軍額、無名の功賞・恩賜による干請の弊害を批判し祖宗の制度に節すべきと説いたが、受理されなかった。知洋州の呉巌夫の私書が誤って王黼の手に渡った一件に景衡の従子の壻が関わり、これが黼に景衡逐斥の口実とされた。

宗澤擁護と定都論

  • 欽宗即位後、左正言・太常少卿兼太子諭德・中書舎人・侍御史を歴任。李光が程瑀を弁護して落職した際、景衡は光のため弁明し落職・予祠となった。高宗即位後、給事中に召され御史中丞に任じられた。
  • 宗澤が東京留守として黄潜善らの一党から攻撃された際、景衡は「澤の京尹としての威名政事は他に卓越している、去冬の京城内で赤心報国の臣が澤のような者数輩いれば禍変はここまで至らなかったであろう、小さな短所を咎めて忠国の節を顧みないのは酷にすぎる」と擁護、これにより上は大いに悟り澤を留任させた。
  • 杭州で叛卒の陳通が乱を起こし、権浙西提刑の趙叔近が招降して官を授けようとした際、景衡は「官吏が無罪で誅され叛卒が有罪で賞を受けるのは賞罰の倒置」と指摘、その授官を撤回させた。
  • 尚書右丞に転じ、黄潜善・汪伯彦は景衡が自分たちと異なる意見を持つことを憎み排斥した。太一正遷の日に禁中に壇を設けて拝すべきとの議には、景衡は「徳を修め民を愛せば天は自ずから福を降す、太一に迎拝する必要はない」と反論した。
  • 都の建設地を巡り、李綱が関中を上、南陽を次とする議を主張し宰相就任後は南陽案を推進したが、景衡は御史中丞として「南陽は険阻に乏しく盗賊に近く漕運も続かぬ、建康こそ天険で拠るべき地」と論じ、巡幸の計画を求めた。潜善らは綱を排斥して南陽の議を頓挫させたが、景衡は金軍の河陽侵攻の報にも再び建康南幸を上奏した。しかし詔は還京と決まり、景衡は資政殿大学士提挙杭州洞霄宮に左遷され、赴任途中で暑気あたりの病を得て京口で卒去、享年五十七。諡は忠簡。

評伝

  • 景衡は程頤の学を受け継ぎ、志慮忠純にして議論は時流に迎合しなかった。建炎初め、李綱は南陽への幸行を、宗澤は還京を主張したが、景衡は建康への幸行を主張した。黄潜善らは彼の異見を平素から嫌っていたが、車駕が揚州に駐まった折、伝聞に怵えて已むを得ず還京の詔を発し、渡江の議を借りて景衡を斥逐したことがそのまま死につながった。
  • 景衡の没後、高宗は「即位以来登用した執政のうち、忠直にして事に臨み敢言したのは許景衡のみであった」と偲び、その家に温州の官舎一区を賜った。