宋史卷三百六十三 列傳第一百二十二 許翰

拱州襄邑の人、字は崧老。元祐三年の進士。徽宗末より辺防・民生を訴える直言で知られ、高宗朝では李綱の推薦で尚書右丞兼権門下侍郎に至ったが、黄潜善らに疎まれて斥けられ不遇のうちに没した。

年表(5件)

出自と直言

  • 許翰、字は崧老、拱州襄邑の人。元祐三年の進士に登第。宣和七年、給事中に召され、時の宰相に書を送り、百姓の困弊が盗賊を生み天下の危亡を招くと訴え、雲中への出師を罷めて辺境を保ち民を休息させるべきと説いた。高麗入貢に伴う運河開削による民の騒擾も批判した。
  • 中書舎人の孫傅が高麗の無功を論じて罷免された際、翰は「傅の黜けは不当」と論じ、宰相の怒りを買い落職・提挙江州太平観となった。靖康初め、給事中に復帰。金軍が京師攻撃を退けた直後、翰林学士・御史中丞に任じられ、辺事について決勝の策を陳べた。
  • 張邦昌が太宰となった際、翰は力を尽くしてこれに反対する疏を上げた。种師道が中太一宮使に罷免された際、翰は「師道は名将、沈毅で謀に富み士卒の信服を得ている、兵柄を解くべきでない」と論じたが、欽宗は「老いて用いがたい」と答えた。翰は秦の始皇帝が王翦を老いとして李信を用い楚に敗れた例、漢の宣帝が趙充国を用いて金城の功を成した例を引き、種師道を老いても用いるべきと説いたが用いられなかった。
  • 中大夫同知樞密院に擢されるも議論が合わず病により辞去。延康殿学士知亳州、言者の弾劾で落職提挙南京鴻慶宮となった。

高宗朝での李綱擁護

  • 高宗即位後、李綱の推薦で延康殿学士に復帰、尚書右丞兼権門下侍郎に拝命。建炎の大変の後、河北山東の大盗(李成・孔彦舟ら)が各数十万の衆を擁し勤王を名目とする中、彼らは張所を帥として得たいと願った。所は御史として黄潜善の姦邪を論じたことがあり、李綱が相となり所を河北等路招撫使として渡河させ興復を図らせようとした際、潜善はこれを阻んだ。
  • 宗澤が車駕の南幸に反対し潜善らを批判した際、潜善らは澤を罷めようとしたが、翰は極力これに反対した。李綱が罷免された際も、翰は「綱の忠義は英発、これを捨てては中興を佐する者がいない、綱を罷めれば私が留まる意味がない」と力めて去就を求めた。
  • 潜善が陳東の誅殺を奏した際、翰は親しい者に「私と東はともに李綱を擁護した者、東が処刑されるなら私も廟堂にいられようか」と語り、辞去の申し出を重ね、資政殿大学士提挙洞霄宮となり、後に言者の弾劾で落職した。紹興元年、端明殿学士提挙萬夀観に召されるも赴かず、二月、資政殿学士に復し、三年五月に卒去。光禄大夫を追贈。
  • 翰は経術に通じ正直不撓であったが、王黼・蔡攸・黄潜善らの薫蕕異味の中、無実の讒言に遭いその志を展べることができなかった。李綱に力を尽くして引き立てられたが綱もまた程なくして去り、翰も斥逐されて死んだ。著書に『論語解』『春秋伝』がある。