宋史卷三百六十二 列傳第一百二十一 呂頤浩

出自と燕山経営の失敗

  • 呂頤浩、字は元直。その先は樂陵の人で後に齊州に徙る。進士に及第、父の喪では貧しく躬耕して老幼を養った。密州司戸参軍を経て李清臣の推薦で邠州教授、宗子博士などを歴任、太府少卿・直龍図閣・河北転運副使・徽猷閣都転運使を経て、伐燕の役では转输を担当し种師道に従軍、燕山府路転運使に任じられた。
  • 頤浩は開辺の困難さを訴え善後策を求めたが、徽宗の怒りを買い削職貶官された(実際の職務は継続)。金人が燕を陥落させると、郭薬師が頤浩・蔡靖らを脅して降伏させ、後に脱出。河北都転運使として提舉崇福宮に病により辞退。

高宗即位後の活躍

  • 高宗即位後、知揚州、車駕南幸に伴い戸部侍郎兼知揚州、戸部尚書に進む。劇賊の張遇が金山に屯した際、頤浩は韓世忠とともに単騎でその塁に赴き逆順を説いて降伏させ、吏部尚書に進んだ。
  • 建炎二年、金軍が揚州に迫り車駕が鎮江に南渡する際、頤浩は「ここに留まり江北の声援とすべし、さもなくば敵が乗じて渡江の恐れが増す」と諫言。同簽書樞密院事江淮両浙制置使として京口に屯した。

苗劉の変での挙兵

  • 苗劉の乱に際し、江寧にいた頤浩は「明受」改元の詔に対し、監司らの動揺の中、子の抗の「主上は春秋鼎盛で二帝が沙漠にあるのに幼帝への遜位などありえぬ」との言で兵変を確信、張浚と連絡し起兵を決意した。
  • 江寧の士民を安んじるため楊惟忠を留屯させ、召還の旨があると「金軍が戦勝の威に乗じ盗賊も蜂起する中、皇帝が安逸を享受してよいはずがない」と復辟を求めて挙兵。平江で張浚と合流、互いに泣いて大計を語り合った際、頤浩は「かつて開辺を諫めて宦臣にほとんど殺されかけ、漕挽で腥膻の地にほとんど陥りかけた身、今この事が成らずとも社稷のために死すのは快いことだ」と語った。
  • 韓世忠を前軍、張㑓を翼、劉光世を遊撃とし自ら中軍を率い、平江から進発。傅党の懐柔工作を退け秀州で「今、賊はなお兵権を握っている、事が成らねば我らが悪名を負う」と諸将を励まし、臨平で苗傅らを撃破、勤王軍として入城した際、都人は道の両側で額に手を当てて歓迎した。

高宗復辟後の政局

  • 朱勝非の罷免後、頤浩は尚書右僕射中書侍郎兼御営使、同中書門下平章事。車駕建康幸行の際、金軍再入の報に「金は陛下の所在を辺面とみなすので、且戦且避して万全の地に導くべき」と述べ、自ら常州・潤州の死守を申し出た。杜充の敗績を受け航海の策を進言した。
  • 建炎年間、御営使が軍政を総べ宰相が兼領する体制で、頤浩は専恣との批判を趙鼎から受けた。紹興四年、趙鼎の翰林学士転任と頤浩弾劾の上疏(十数回)を経て、頤浩は求去し鎮南軍節度開府儀同三司醴泉觀使に転じた。奉化の賊将・璉に一時拘束されるも、高宗が頤浩の功により赦して招撫した。

李成討伐と再登用

  • 江東安撫制置大使兼知池州として、王燮・巨師吉の兵を自ら率い、李成の部将馬進が江州を囲むと鄱陽に駐軍。楊惟忠と共に南康へ趣くが失利、崔増の万余の兵を得て軍勢を回復、王燮・崔増に賊を破らせたが江州は既に陥落していた。張㑓が招討使として馬進を破り、進は逃走し成は劉豫に降った。
  • 淮南の民が未復業の状況下、頤浩は宣撫使として夀春府・徐州・廬州・和州・無為軍を管轄、趙延夀を招降して精鋭五千を編入。張琪の五万の軍が饒州を犯すと、頤浩の帳下兵は一万に満たなかったが、閻皐・姚端・崔邦弼らの部将が奮戦し大破した。
  • 少保尚書左僕射同中書門下平章事兼知樞密院事に拝命。紹興二年、桑仲の襄陽進取要請を受け大挙出師を議し自ら督軍。高宗は頤浩・秦檜に「頤浩は軍旅を治め、檜は庶務を理せよ」と分業を命じたが、檜は頤浩を公論の支持を得ぬ者とみなし、名士を集めて対抗した。

秦檜との権力争いと再度の失脚

  • 都督江淮荊浙諸軍事開府鎮江に任じられ、崔増・趙延夀の二軍と文武士七十余人を率いて出発。常州で延夀の軍が叛き劉光世がこれを殲滅、桑仲の死も伝わり進撃を止めて帰朝、知紹興府に転じ朱勝非が同都督諸軍事となった。
  • 頤浩は帰朝後、秦檜を排斥するため朱勝非を引き入れ、給事中の胡安国が勝非登用に反対したが頤浩が押し通した。安国失職、その後の一連の弾劾(江躋・呉表臣ら)で檜派の程瑀・胡世将・劉一止・張夀・林待聘・楼炤らが罷免され、秦檜自身も罷相され頤浩が独り政を執った。
  • 頤浩は屡々出師を促し、太祖の十万の兵に対し今は十六七万の兵があると論じ、韓世忠・張俊・陳思恭・張崇の連勝を挙げ、劉豫の傀儡政権は長続きしないとして北伐を主張。李綱の湖南宣撫について「縦暴無善状」と論じ、李光の綱擁護に対しては「結党」と非難させて光を罷免に追い込んだ。
  • 濫賞の審査で寛大な処置を続けた頤浩に対し、右司郎官の王岡が「公は国鈞を秉りながら不平が甚だしい」と諌めた。頤浩は再秉政二年、高宗が水旱地震の詔罪己求言を発した際、蘇州・湖州の地震や泉州の大水を上奏しなかった責を辛炳・常同に弾劾され罷免、鎮南軍節度使開府儀同三司提挙洞霄宮、後に観文殿大学士に転じた。

晩年

  • 紹興五年、戦守方略を問われ十事を献策。湖南安撫制置大使兼知潭州として郴州・衡州・桂陽の盗を平定。少保浙西安撫制置大使知臨安府行宮留守、明堂の礼成後に成国公に進封。紹興八年、少傅鎮南定江軍節度使江東安撫制置大使兼知建康府行宮留守。醴泉観使を経て、紹興九年、金が河南地を帰した際、高宗は頤浩を陝西に派遣しようとしたが老病を理由に辞退、金の帰地には裏があると条陳。まもなく病により見えることなく卒去。太師秦国公を追贈、諡は忠穆。
  • 頤浩は膽略に富み鞍馬弓剣に長じ、国歩艱難の時に重んじられた。胡安国は韓忠献(韓琦)に倣い至公無我・報復恩讐を戒める書を送ったが、頤浩は用いなかった。朱勝非とともに江浙湖南諸路の大軍月樁銭を創設し、東南に横賦の弊をもたらしたという。