宋史卷三百六十二 列傳第一百二十一 范宗尹

出自と鎮撫使制度の提案

  • 范宗尹、字は覚民、襄陽鄧城の人。若くして篤学、宣和三年上舍登第、侍御史・右諫議大夫を歴任。王雲が使金から帰り、金が必ず三鎮を求めると報告した際、宗尹は「棄地」を主張し批判を受け罷免された。張邦昌僣位後に復職し、路允迪とともに康王に勧進した。
  • 建炎元年、李綱が右僕射となった際、宗尹は「名は実に浮き震主の威がある」と論じ、舒州に出された。汚偽命の廉により鄂州に責置された後、中書舎人・御史中丞・参知政事を歴任。呂頤浩罷相後、宗尹がその位を摂した。
  • 諸盗が州県に割拠し朝廷が制御できぬ状況で、宗尹は太祖の藩鎮抑制策を「良法だが今日の四方帥守の脆弱の弊を招いた」と評し、河南江北数十州を藩鎮として付し兵権を委ねる「鎮撫使」制度を提案、これが採用された。通議大夫守尚書右僕射同中書門下平章事兼御営使に任じられた(年三十、近世宰相中最も若い)。

鎮撫使制度の破綻と失脚

  • 京畿東西・淮南・湖北を鎮に分け鎮撫使を置いたが、李成・薛慶・孔彦舟・桑仲ら群盗出身の者や翟興・劉位・李彦光・郭仲威ら潰将出身の土豪が多くその地を守れなかった。宗尹は崇観以来の濫賞・修書・営繕・応奉・開河・免夫・獄空などの弊政を釐正するよう求めた。
  • 宣靖執政の罪を宥免し、徐秉哲・呉幵・莫儔らを量移し、呉敏・王孝迪・耿南仲・孫覿・蔡懋らを叙復する赦を出したことに対し、季陵が宗尹の意を忖度して人材登用を求めたが、沈与求の弾劾で陵は連座、宗尹自身も求去を申し出た。
  • 廷対の順位を巡る旧怨(李邦彦との経緯)や、宗尹の推薦した邢煥・藍公佐・辛道宗(それぞれ戚里・客省出身・兵を知らぬ人物)への批判、樞密院計議官王佾の登用を巡る張延夀の弾劾など、失政が相次いだ。
  • 紹興元年二月、日食を機に宗尹は輔政無状として辞意を示したが許されず。江東通判魏滂の貪盗、営田を担当した李弼孺の朱勔への阿諛が発覚しいずれも罷免された。晁公為が妻の贈賄事件で罷免された際も宗尹は陰でこれを庇っていた。
  • 明堂覃恩の討論建議は秦檜が力賛したが、上意に反したため上が「怨みを君父に帰することを欲さぬ」と手勅を下し、辛道宗兄弟との交際も忌まれ、沈与求の弾劾でついに落職。知温州に転じ、まもなく卒去、享年三十七。
  • 宗尹は才智に富み、金の勢威が盛んな時に自ら任じ鎮撫分置の議を建て宰相となったが、その人事は劇盗を多く用い援兵も糧餉も通じなかったため諸鎮は久しく存続できず、政治にも私が多かったため、議者にしばしば非難された。