出自と初期の活躍
- 朱勝非、字は蔵一、蔡州の人。崇寧二年上舎登第。靖康元年、東道副総管兼権応天府として在職中、金軍の攻撃を受けて一時逃れたが、韓世忠の部将楊進が敵を破ると復帰して視事した。済州に赴き康王に南京(応天府、宋の太祖興王の地)への進出を進言。
- 康王即位後、南京建炎改元の際、試中書舎人兼権直学士院として草創期の詔勅制作にあたり、厳正な文辞で知られた。上疏し「仁義は天下の大柄、中国がこれを保てば四夷は服する」と論じ、契丹との旧好を捨て金と結んだ夾攻策を批判、仁義に合う政を行うべきと諫めた。
- 総制使の錢蓋が陝西制置使として棄師誤国したことを弾劾し、諫官の衛膚敏が元祐太后の兄子を弾劾された事件でも外戚を理由に諫臣を逐うべきでないと論じた。
苗劉の変
- 建炎二年、尚書右丞。宰執の蔭補濫用を批判し、旧制の遵守を求めた(趙普・范純仁・章惇らの子弟の登用例を比較)。中書侍郎に遷り、車駕南幸に伴い経理を担当、宣奉大夫尚書右僕射兼御営使を拝命。
- 王淵が簽書樞密院事兼御営司都統制となり内侍が専横する中、苗傅・劉正彦らが王淵を反逆の疑いで斬殺し宦官を殺害、行宮を包囲する事件が発生。勝非は皇太后とともに事態収拾にあたり、傅らの「高宗退位・皇太后垂簾」の要求に対し、太后とともに垂簾聴政の折衷案で対応した。
- 勝非は苗劉一党(王鈞甫・馬柔吉・王世修ら)を個別に懐柔し、金人の脅威や漢族としての立場を説いて内部分裂を促した。改元「明受」を認めつつ形式的に応じ、韓世忠の起兵を知った傅らに勤王軍の反正の意図を隠して安心させ、勤王軍の接近後、諸将に上の復辟を求める上表を用意させた。四月朔、勝非は百官を率いて睿聖宮に赴き、高宗を親しく助けて宮に還らせた。復辟後、勝非は「臣は昔変に遭い義として即死すべきだったが、生きながらえたのは今日の事のため」と述べ、罷政を求めた。
呂頤浩・張浚への推薦と晩年
- 上が後任を問うと勝非は呂頤浩と張浚を挙げ、頤浩は「練事にして暴」、浚は「喜事にして踈」と評した。御史中丞の張守は勝非の防禦不足を弾劾したが受理されず、観文殿大学士知洪州、江西安撫大使兼知江州に転じた。
- 紹興元年、馬進が江州を陥落させた際、侍御史の沈与求が勝非の赴任の遅さを弾劾、中大夫に降格され分司南京・江州居住となった。紹興二年、呂頤浩の推薦で兼侍讀に復し、都督江淮荊浙諸軍事にも薦められたが、給事中の胡安国・侍御史の張躋の弾劾で一旦罷免、その後頤浩の引きで再び侍讀に復し、尚書右僕射同中書門下平章事を拝命。
- 母の喪に服した後、起復して右僕射兼知樞密院事。江端友の宗廟営造の提案に対し勝非は和議路線から臨安への宗廟建立を主張。徐俯の後任として胡松年を推薦したが常同の弾劾を受け、また蒼頭奴(家僕)の官職斡旋事件でも批判された。度重なる乞免と魏矼の弾劾により罷免。紹興五年、戦守四事について応詔言上し、知湖州となるも病を理由に帰郷。秦檜との不和により、檜が政権を握った後は八年間廃居となり、その後卒去、諡は忠靖。
- 勝非は張邦昌の友壻であり、邦昌僭位時にその使者を械りに処したことがある一方、金軍過江後は邦昌を尊礼して後を録すよう請うなど複雑な立場を取った。苗劉の変での保護の功は大きかったが、李綱が罷免された際には黄潜善の風旨に従って綱を「狂妄」とする制を起草したこともあり、再相時には趙鼎を忌んで趙鼎の使名を軽んじる発言をするなど、その私心が指摘された。著書に『閑居録』がある。