宋史卷三百五十四 列傳第一百十三 何常

生涯

  • 字は徳固。京兆の人。進士及第、開封府兵曹。紹聖初、蘇軾の主文の非を唱える者があり毀宗廟の嫌疑に連座して原州通判に出される。
  • 将作丞・陝西転運判官・熙河転運副使を歴任、民に金帛を貸して穀物を辺境に納めさせる議に対し、車牛輸送による民の疲弊は既に限界にあると反対、貧弱者に不利と論じたため熙帥・監軍の弾劾を受け成都路に左遷。
  • 中使が持参した御札で戯龍羅二千・繍旗五百の製作を命じられた際、常は無益な浪費であると諫め四分の三削減を勝ち取り、直龍図閣・集賢殿修撰を加えられ陝西の使を経て顕謨閣待制として秦州を知る。
  • 通議大夫に転じ、西夏が堡柵を築き挑発する中、出兵抑制を主張、鎮秦六年、監察方邵の弾劾で法違反を問われ昭化軍節度副使に落とされたが数月で官職回復、右文殿修撰に至り七十三歳で没。

史論①

  • 西漢末、士大夫が阿諛して硬骨を失い滅亡に至ったのに対し、東漢の諸賢は節義を重んじて対抗しすぎ党禍を招いた。宋の元祐は東漢に、崇寧・宣和は西漢末に類する。忠鯁の士が罪を得るや周囲は付和雷同し、君主は驕り臣下は諂う――これが国を滅ぼす所以である。沈銖ら諸人は時流に応じて右往左往するばかりで、その存亡に関与する力量なく、士と呼ぶに値しない。