生涯
- 字は敦礼。邵武の人。熙寧初、進士策試で専ら時流に迎合する答案を書き、考官の宋敏求・蘇軾は黜けようとしたが呂恵卿が推して第一とした。
- 奉国軍判官・登聞検院を経て国子丞として湖州を知り校書郎に留任。元祐初、職方・兵部員外郎・集賢校理・礼部郎中を歴任、給事中の趙君錫が対策文が宗廟を訕るものと論じたが、蘇軾・劉攽は「祖宗の紀綱が因循姑息であるので朝廷と共に刷新すべき」との論であり訕謗ではないと弁護、結果、淮西刑獄提点に出される。
- 紹聖中、左司郎中・起居郎・中書舎人・給事中を歴任、性は狼戻で諛いを好み、王珪の冊立時の異論を密告。哲宗は宣仁太后の功を称え王珪を追貶させた。
- 司馬光・呂公著の厚遇と蔡確の受難を対比する論を展開、林希の推挙も帝は許さず。王回の推挙に連座し済州・洪州知事、牟利黷貨の悪評、曾布との親密により「小訓狐」と呼ばれた。
- 徽宗初、吏部侍郎召還を巡り韓忠彦に阻まれ宝文閣待制として青州知事に。定州知事として、蔡確・王珪の功罪を極端に論じる大言を吐き、徽宗の怒りを買い集賢殿修撰に降格、以後用いられず。洪州・亳州知事、徽猷閣直学士を加えられ政和末に卒。