経歴
- 聶昌、字は幸遠、撫州臨川の人。太学上舍から相州教授、蔡攸の推挙で祕書郎・右司員外郎、名分の乱れを正す上奏を行い、湖南転運使・太府卿・戸部侍郎・開封尹を歴任した。王黼に連座して德安府知事に落ち、崇信軍節度副使・衡州安置に流された。
- 欽宗即位で吳敏に用いられ開德府知事から兵部侍郎・戸部尚書・開封尹、太学生陳東らの伏闕上書事件では宦官殺害の暴徒を鎮め、盗賊対策では敢えて賭博を黙認し謀計を分散させる策を用いた。
- 名を「昌」と改めたのは帝が周昌の抗節の義に因んでのこと。同知樞密院として三関四鎮を「藩籬」と位置づけ、堅城守備と河川遮断による防衛策を献策し評価された。両河割譲交渉に耿南仲と共に派遣される途上、金将粘罕との会見で礼を巡り毅然と争い、河東への使者行では絳州の民に城門を拒まれ、州鈐轄趙子清の部下に殺害され目を抉られ体を切り刻まれた。年四十九。建炎四年、観文殿大学士・諡忠愍を贈られた。周人の急を助ける義侠心があったが恩讐に明白すぎ、王黼の暗殺を客に指示した過去もあり、誤国の禍を招き自身も免れなかったと評される。
史論(何㮚・孫傅・聶昌)
- 何㮚・孫傅・聶昌はいずれも疎放俊敏な士だが器量が浅く、艱難の時期に重責を任せたことで宋事の帰結が知れる。欽宗の再度の金営行きは何㮚の誤りに起因し、一死をもっても償えない。孫傅の太子隠匿策はあまりに疎かであり、聶昌の河東行はさらに謬りで、命を捨てたに過ぎない。陳過庭が方臘の乱に乗じ蔡京・王黼・朱勔の誅殺を求めたのは、諫言の気風を示すものとして評価できる。