宋史卷三百五十三 列傳第一百十二 陳過庭
経歴
- 陳過庭、字は賔玉、越州山陰の人。初名は揚庭、館陶主簿・澶州教授・中牟県知事を経て国子博士、何執中・侯蒙に才を認められ祠部・吏部右司員外郎、契丹使として遼主の病状の風説を否定し辺備の重要性を帝に説いた。
- 御史中丞として方臘の乱に際し「乱を招いたのは蔡京、乱を養ったのは王黼」と両者の誅を求め、朱勔父子の刑余小人としての権勢濫用も弾劾したが権貴の反感を買い蘄州知事に落とされ海州団練副使・黄州安置となった。
- 欽宗即位で兵部侍郎・御史中丞に復帰、節度使の乱発を批判し宣仁后への誣謗の是正、太原不援の姚古の断罪を求めた。両河割譲交渉に耿南仲・聶昌が老齢・親の理由で辞退する中、陳過庭は「主憂われれば臣辱を受くべし、死をもって効さん」と自ら赴き、金軍に拘留されたまま帰れず、建炎四年燕山で年六十で卒し開府儀同三司・諡忠肅を贈られた。