経歴
- 孫傅、字は伯野、海州の人。祕書省正字・校書郎・監察御史・礼部員外郎を経て、蔡脩に速やかな施策を勧めるも用いられなかった。高麗貢使の随行による民の煩費を蘇軾の論と同視されて蘄州安置に落ちたが、給事中許翰の弁護もあり後に復帰、靖康元年給事中・兵部尚書として「祖宗の法は民を恵み、熙豊の法は国を恵み、崇観の法は姦を恵む」との名言を残した。
- 尚書右丞・同知樞密院として金軍包囲下、丘濬の詩に登場する郭京・楊適・劉無忌の名を実在の人物と誤認し、郭京の「六甲法で敵将を生擒する」との妄言を信じて七千七百七十七人の雑兵を集め厚遇した。反対意見を退け、京の出陣も遅延を重ねた末に大敗、京自身は敗走して姿を消した。
- 靖康二年正月、欽宗が金営に赴き旬を過ぎても帰らぬ中、太子輔導・留守を兼ね、異姓擁立に強く反発し「わが君こそ中国の帝、異姓に立てば死をもって抗う」と断言。太子を民間に匿う秘策を講じ、身代わりの死者二人を用意して金の追及をかわそうとしたが失敗、自ら太子の輔導として金軍に同行を申し出て子との今生の別れを告げ、留守の職を王時雍に託して太子を追い、南薰門で范瓊に阻まれたが「太子の傅たる者、死をもって従う」と門下に宿り、翌年二月、朔廷(金の都)で死んだ。紹興中、開府儀同三司・諡忠定を贈られた。